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旅の記:2023年8月のツアー㉖米沢城・松岬神社<鷹山>・上杉神社<謙信>(山形県米沢市)

【旅の記:2023年8月のツアー㉖米沢城】

米沢に到着、一泊してライブまで朝から歴史探訪です。まずは米沢城から。
鎌倉時代中期の暦仁元年(1238年)に大江広元の次男・長井時広が築城したのが最初とされる。出羽国置賜軍長井郷の地頭として赴任してきた時広は地名から長井姓を名乗り、長井氏が150年近くこの地を治めた。
室町時代初期に伊達宗遠に侵略され長井氏に代わり伊達氏の支配下になる。天文17年(1548年)伊達晴宗は居城を桑折西山城から米沢城に移し、晴宗から輝宗、政宗の時代に本拠地として使用され、城下町も整備された。
天正17年(1589年)政宗は会津の蘆名氏を滅亡させると黒川城(後の会津若松城)に移り、米沢城には晴宗の弟にあたる宗澄、そして宗清を城代に据えた。しかし豊臣秀吉の総無事令(私戦禁止令)が発令されていたため、会津攻略は認められず召し上げられ、翌年に本拠地を米沢(72万石)に戻した。そして天正19年(1591年)岩出山城(58万石)に移封した。
伊達氏に代わって会津にはいった蒲生氏郷の重臣・蒲生郷安が米沢城主(7万石)ではいり城の改修を行った。慶長2年(1597年)氏郷の子・秀行は13歳と幼年だったこと、そのために家臣をまとめられずお家騒動が起こり、宇都宮へ減転封、会津には越後国より上杉景勝が120万石で入封、米沢城主には重臣の直江兼続を置いた。
慶長3年(1598年)秀吉が亡くなると、翌年に上杉景勝は会津に帰国し、領内の支城を整備し、浪人を集めるなどしたたいめ、家康から申し開きをするようにと召喚命令がでるが、直江兼続の挑発的な返答、世にいう「直江状」(最近は偽文書説、か大幅に改ざんされた説もありますが。。)で答え、拒否した。これにより会津討伐が行わるが、討伐軍北上中に石田三成挙兵の方が入り、小山会議にて引き返すことが決定する。上杉軍は直江兼続を総大将として、東軍についた最上氏を攻めた。短期攻略を目指し長谷堂城を攻めた兼続だったが、最上軍の激しい抵抗にあい、さらに関ケ原での西軍敗北の報が届き、撤退を開始。伊達政宗の援軍を得て追撃をする最上軍に対し奮戦し、米沢へ帰還した。これにより最上郡に庄内地方、伊達軍に福島侵攻を許した。
慶長6年(1601年)上杉景勝と兼続は上洛し、家康に謝罪。景勝は出羽米沢30万石に減転封で、家名の存続を許された。このとき120万石規模の家来を解雇せずに引き連れて行ったといい、財政はかなり厳しかったそうですが、新たな土地の開墾、治水事業に力を入れて、面高30万石に対して内高51万石といわれるまで開発をすすめ、殖産産業、鉱山開発なども推進した。
慶長13年(1608年)景勝は兼続に命じ城の大改修を行い、慶長18年(1613年)に完成した。
寛文4年(1664年)3代綱勝が跡継ぎを決めずに急死してしまい、お家存続が危ぶまれたが、会津藩主・保科正之のとりなしで、綱勝の妹・富子を母とする高家・吉良義央の長男・綱憲が末期養子として認められ、藩は存続した。しかし石高は15万石に半減され、藩士解雇も行わなかったために、藩財政はひっ迫することとなる。
9代治憲(鷹山)の時に、藩政改革を行い、財政再建を果たし、その後の藩主も学問の奨励し、領内をうまく治めたために、幕府から表彰され、幕末の12代藩主斉憲の時に18万7千石に加増された。斉憲は佐幕派として文久3年(1863年)に京都警護の任を果たした。大政奉還後は佐幕派と尊皇派に分かれる中、斉憲はかつての保科正之の恩義があるとして、会津藩と新政府軍の間に入り仲介を務め、事態の収拾に努めたが、これが新政府から疑いの目で見られることとなった。結局、奥羽列藩同盟に加わることとなった米沢藩は北越戦争にて長岡藩と共同して戦うなどしたが敗れ、羽越国境まで新政府軍が到達したところで、斉憲の嫡子・茂憲の正室・貞姫の父で土佐藩主の山内豊資から恭順を進める書状が届き、これを受けて藩論をまとめ恭順した。その後は、新政府軍につき庄内藩攻撃に兵を出したり、会津藩にも恭順を勧めたりしている。そのため戊辰戦争後は4万石を減俸されるだけにとどまった。
明治2年(1869年)版籍奉還により藩主になっていた茂憲は米沢藩知事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で米沢県がおかれ、その後山形県に編入された。
明治5年(1872年)城内にあった上杉謙信の霊屋を鷹山と共に合祀しして上杉神社を創建。明治6年(1873年)廃城令により、城の建物はすべて破却された。明治7年(1874年)城跡が松が岬公園として一般公開されると、明治9年(1896年)に謙信霊柩は上杉家廟所へ、上杉神社を本丸跡に移した。

右手が二の丸跡。上杉家14代当主となった茂憲伯爵邸があったが大正8年の米沢大火で焼失、大正14年(1925年)再建、現在は上杉記念館になっている。
上杉鷹山公が迎えてくれます。
松岬神社。明治35年(1902年)に上杉神社から鷹山公を分祀し建立された。直江兼続、鷹山の師・細井平洲他、功のあった人や藩士を祀る。
さらに進むと、こちらも鷹山公。推しですね。
招魂碑。戊辰戦争で戦死した米沢藩士と西南戦争の戦死者を慰霊するために明治11年に建立。もとは藩祖上杉謙信公の遺骸を安置した御堂があった場所だそうです。
伊達政宗生誕地の碑。ひっそりと、、あまり政宗さんには触れたくないみたいです。兼続との仲悪エピソードもありますし、因縁を思えばそうなりますか。
謙信公をお祀りする上杉神社。毘沙門天の生まれ変わりとされた謙信も、明治政府の廃仏毀釈により神道の神となりにけり。
ご本殿。社殿は、こちらも大正8年の米沢大火で焼失、大正12年に再建されたそうです。
謙信公の像。

お堀など、城を思わせる場所の写真をいっさい撮り忘れています。。桜の名所でもあるそうですよ!






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