旅の記:2023年7月のツアー⑰柴田神社・三姉妹神社・北ノ庄城跡(福井県福井市)
【旅の記:2023年7月のツアー⑰柴田神社・三姉妹神社・北ノ庄城跡】
柴田勝家の居城であった北ノ庄城跡と伝わる場所に鎮座するのは戦国武将・柴田勝家を主祭神とする柴田神社です。織田家の宿老として、信長に従い数々の戦いで活躍した勝家は「鬼柴田」と恐れられた。朝倉氏滅亡後、朝倉旧臣が治めていた越後国であったが一揆が絶えず、信長は総軍を率いて出陣、これを平定し、勝家は越前国八郡49万石を与えられた。天正4年(1576年)北陸方面軍司令に任命されると一向一揆を制圧して天正8年(1580年)に加賀を平定した。天正10年(1582年)越中国で上杉方と交戦中に本能寺の変が起こり、北ノ庄に撤退する。光秀を討つべく計画をするが、変を知った上杉方の越中・能登の国衆の妨害にあい手間取っていると、秀吉が中国大返しで光秀を討ち取ってしまった。そのため織田家後継者を決める清須会議では分が悪くなり、信長三男・信孝を推したが、秀吉が擁立した信長の嫡孫・三法師が継ぐこととなった。これで勢力を増した秀吉と勝家は天正11年(1583年)に賤ケ岳で激突、時代の勢いには逆らえず、前田利家の戦線離脱もあり、勝家は敗走、北ノ庄城に逃れた。秀吉は前田利家を先鋒として城を包囲、勝家は妻・お市の方らとともに自害した。
北ノ庄城本丸にいつしか勝家・お市を祀る石祠が作られ、福井城内の神祠として保護されていたのを明治23年に旧福井藩主松平春嶽、旧藩士、住民らによって神社が建てられて「柴田神社」となった。戦火や地震で社殿を失うたびに、氏子によって再建されたそうで、愛されていますね。
秀吉目線で見れば、頑固で古臭い上司かもしれませんが、義に殉じた生き様と、最後に多分ずっと好きだった(僕の妄想)お市の方を妻として迎えて喜んでいる姿を思うと、憎めない人でありますね。
徳川期になると慶長6年(1601年)結城秀康が城の遺構を大きく改変し福井城を造営した。現在境内は北ノ庄城址公園として整備されている。