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旅の記:2023年11月のツアー㉓桜山神社・神風連資料館(熊本県熊本市)

【旅の記:2023年11月のツアー㉓桜山神社・神風連資料館】

櫻山神社は天照大神・豊受大神を主祭神とする神社で、明治18年(1885年)に肥後勤皇党と神風連の遺族が「誠忠の碑」と「123士の碑」を建立して、櫻山同志会を組織したことがはじまり。
大正2年(1913年)櫻山祠堂を建築、昭和23年(1948年)に桜山神社に改称した。

神風連の乱は明治9年(1876年)に熊本で起きた明治政府に対する士族の反乱です。幕末の熊本藩では教育方針によって「学校党」「勤皇党」「実学党」の3派があり、乱を起こしたのは国学・神道を重視した国学者・林桜園の私塾・源通館の門弟を中心とする勤皇党(敬神党)のメンバーでした。
明治維新後、廃藩置県や徴兵令により特権を奪われた士族は不満をためていた。熊本県では県庁への仕官を勧めますが、敬神党の人々は反新政府で、これに応じませんでした。そこで県令だった安岡亮亮は彼らを神職として採用することとする。これを受けて、太田黒伴雄を首領とした党の多くは神職についた。彼らは「皇道が興隆したら、元寇の時のように神風が吹き、外敵を追い払うに違いない」と発言しており、これを見た神職任用試験の試験官が「まるで神風連だ」と言ったことから、敬神党は「神風連」という異名を得ることとなった。
明治政府が欧化政策を採ったことに対し怒りを募らせていたが、明治9年(1876年)3月28日に廃刀令が発令されると、日本刀を神の国の風習でありシンボルと考える神風連はついに決起することとなる。
太田黒伴雄は自らが宮司を務める新開大神宮に幹部を集め「宇気比」と呼ばれる誓約祈祷をを行い、挙兵の神託を得て同年10月24日を決起の日と決定しました。当日の夜、藤崎八旛宮の裏手にある神風連幹部・愛敬正元の邸宅に総勢170名が集結、首領である太田黒が林桃園から譲られた藤崎八旛宮のご神体を背負い出陣の口上を述べ、副首領・加屋霽堅(かやはるたか)が檄文を読み上げた。「神風連の大義の戦いに西洋の火器は不要」と銃は持たなかったという。神風連は7隊に分かれ県令・安岡良亮、熊本鎮台司令官長・種田政明らを襲撃。安岡は襲撃を事前に察知しており、その対策を協議していたが、そこに神風連の一隊が押し寄せ斬り合いとなり、重傷を受けたために3日後に鎮台病院で絶命した。種田も寝室で襲撃を受け、とっさに枕元にあった日本刀で応戦するも、首を斬り落とされた。種田の愛妾小勝は負傷しながらも「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ(旦那はいけない、私は手傷)」という電報を熊本電信局に打った。
神風連本隊70名は熊本鎮台の砲兵隊300名を急襲、何の装備もしていなかった砲兵隊は逃げ回るばかりであったが、翌日には児玉源太郎ら将校が駆け付け態勢を立て直すと反撃を開始。加屋は二刀流で応戦し、鎮台兵を切り倒していくが、急所に銃弾を受けて戦死。太田黒も胸を撃ち抜かれ民家に担ぎこまれるが、もはやこれまでと義弟の介錯により果てた。
戦闘が終了すると、神風連残党46名はは藤崎八旛宮に戻り、そこから金峰山に登り幹部・石原運四郎が弓矢八幡に伺いを立てると神意は「斬入り」と出たという。若い少年兵を下山させた後、鎮台への斬り込みを試みるが、警戒が厳重であったため、各自同志のいる萩・秋月へ向かい、各地の反乱に参加することとして決起は終了となった。
政府軍は死者約60名、負傷者約200名。。神風連の参加者約170名のうち自決も含め使者124名、残ったメンバーもほとんどが捕縛されて、一部は斬首されました。

神風連の烈士らは大正13年(1924年)に名誉回復され、一部の関係者に贈位がなされた(太田黒・加屋に正五位)。

拝殿
ご本殿と誠忠の碑
死者は124名という情報が多いですが、碑は123士となっています。
123士の墓標の一番奥は林桃園の墓
幕末の人斬り河上彦斎の仮墓。大山益次郎暗殺などのへの関与を疑われて、明治4年(1872年)に日本橋小伝馬町にて斬首された。

境内には昭和53年(1978年)に造営されたという神風連資料館があり、神風連や肥後勤皇党関係の武具・絵画・遺品等が展示されていました。(2024年9月2日で閉館)
神道を重んじ復古主義をとなえた神風連の乱は、他の氏族の乱とはその性質が少し違いますね。境内にいた地元の方がいろいろと説明してくださいました。


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