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旅の記:2023年10月のツアー㉔福島稲荷神社・世良修蔵墓(福島県福島市)

【旅の記:2023年10月のツアー㉔福島稲荷神社・世良修蔵官修墳墓】

永延元年(987年)一条天皇の時代、安倍晴明が奥州に下向した際に、この辺りは将来有望な土地だとして伊勢の外宮の豊受比売命(とようけびめ)を勧請して、里の総鎮守としたのがはじまりという福島稲荷神社。承安元年(1171年)晴明の孫・清明が社殿を改築、その後天正と慶長の兵火にあい社殿を焼失してしまう。寛永元年(1624年)板倉重憲が社殿を修営、福島藩主堀田正仲が元禄2年(1689年)に本殿、同5年(1992年)には拝殿を再建する。元文5年(1740年)には藩主板倉勝里が社殿を造営した。

この日はお祭りで、なかなかの人出
昭和41年(1966年)に明治神宮より移築されたというヒノキの大鳥居。左手に映る屋根は福島県最古の木造建築物で元の拝殿だった絵馬殿。
全体像は撮れずでしたが、現在の社殿は昭和13年(1938年)に竣工したもので、明治神宮宝物殿・神田神社本殿、日光東照宮の修理を手掛けた大江慎太郎氏の設計だそうです。
神楽殿と聖徳太子神社
ヤマトタケルを祀る吉峰神社
境内の片隅に世良修蔵の墓

世良修蔵は長州藩士で騎兵隊の軍艦としても活躍した。戊辰戦争では新政府の奥羽鎮撫総督府下参謀として、会津征伐のために総督・九条道孝と共に慶応4年(1868年)3月23日に仙台藩藩校養賢堂に本陣を置いた。会津藩に同情的だった仙台藩に世良は強硬に出兵を促がし、その際に仙台藩士を嘲ったり、振る舞いも傍若無人であったという。総督府は会津藩に降伏の勧告をするも会津藩はこれを拒否、仙台藩・米沢藩は会津救済の嘆願をしたものの、降伏を拒否されていることもあり、世良らはあくまでも武力討伐という姿勢をとった。これにより東北諸藩は薩長の軍門に下り会津を攻めるか、奥羽越列藩同盟の名の下に新政府に宣戦布告をするかの選択を余儀なくされた。
この頃福島城下の金澤屋に宿泊していた世良から下参謀の大山格之介宛てに出された密書を福島藩士が入手、「奥羽を皆敵と見て、武力をもって一挙に討伐する」という内容に仙台藩士たちが激高し、暗殺実行を決意、閏4月20日(6月10日)に金澤屋で就寝中の世良を仙台藩士・福島藩士たちが襲撃した。世良は2階から飛び降り重傷を負って捕縛され、同日朝に阿武隈川河原で斬首され、遺体は川に投げ捨てられた。享年34。これにより新政府と奥羽越列藩同盟との戦いは避けられないものとなった。世良の首級は最初月心院に、明治3年(1870年)陣場山に改葬、同8年(1875年)に宮城県が墓碑を建立した。

世良の傍若無人な態度が東北諸藩の反発を招き、避けられるはずだった東北戦争を招いた張本人のように描かれことがありますが、、会津藩は何があっても叩き潰したかった新政府の意向を受けて、わざとそのような態度をとっていたのかもしれないし、世良の密書というのも会津藩が作成した偽手紙ともされ、会津藩・仙台藩の主戦派にはめられたというケースも考えられます。
実際はどうだったのでしょうか。明治9年(1876年)明治天皇東北巡幸の際には木戸孝允と当時の県令村上光雄が献灯していて、木戸は世良を偲ぶ日記を書いている。また前方の石灯籠は右側を薩摩藩士黒田了介が、左側を長州藩士品川弥二郎が寄進・建立している。この二人は世良の前に奥羽鎮撫総督府の参謀に就任していたが辞任、世良が東北に赴任することとなった。
世良の背負った任務は、命がけだと、皆知っていたのではないでしょうか、、現在でも春明の彼岸には神職による慰霊祭が行われていて、花を手向ける人もあるという。山口から訪れる人は、地元の人の慰霊に感謝を覚えるそうです。

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