旅の記:2023年11月のツアー①慈眼寺<岩村・河井会見の地>(新潟県小千谷市)
【旅の記:2023年11月のツアー①慈眼寺】
2023年11月のツアーは単発で行った長岡から。まずは少し手前で高速を降りて真言宗智山派の寺院である慈眼寺へ。天武天皇の白鳳年間(7世紀末)に薩明大徳が創建したととも、貞観2年(860年)に真雅が創建した、とも言われる。
慶応4年(1868年)5月2日、越後国長岡藩家老河合継之助と新政府軍監の岩村誠一郎(のちの岩村高俊)が会談を持った場所としても有名です(小千谷談判)。
新政府軍(西軍)が幕府領で会津藩預所となっていた小千谷へ迫ると、長岡藩は抗戦か恭順かで揺れた。そんな中、継之助は「武装中立」を主張して、防戦態勢を整えた上で、西軍との談判に向かった。当初は西軍本陣で、という話であったが、継之助が到着すると会津兵が片貝方面に攻め込んだという知らせが入り、談判どころではなくなってしまったため、継之助は旅籠でまたされることとなった。仕切り直しとなった談判は慈眼寺で行われることとなり、継之助が赴くと、軍艦・岩村誠一郎(土佐)、杉山壮一と白井小介(共に長州)、淵辺直右衛門(薩摩)が応じた。
藩主の嘆願書を携えて継之助は非戦を訴え山縣有朋か黒田清隆との会談を望んだが、岩村はそれを一蹴、時間稼ぎたとして、食い下がる継之助を置いて30分で談判を切り上げたという。岩村は元来評判悪く、あえて岩村に対応させたのは、新政府は長岡攻撃ありきで進軍していたからともいわれる。それか、その意を組んでわざとそのような態度を取ったのか。同じく戊辰戦争で悪役となって、新政府軍と奥羽列藩同盟との戦いを決定的なものとした世良修蔵を思い出しますね。修蔵は仙台藩士に暗殺されましたが。
これにより長岡藩は奥羽列藩同盟側となり北越戦争が勃発、戊辰戦争を通じて最大の激戦の一つとなった。
維新後、岩村誠一郎(高俊)は宇都宮県・神奈川県の権参事を務め、明治7年(1874年)に佐賀県権令となって征韓党の挙兵(佐賀の乱)の鎮圧に努めた。この時も佐賀藩士であった島義勇の前で佐賀藩士を侮辱して、義勇を反乱側へと追い込んだという。この時も岩村の性格なら、佐賀藩士族を反乱へ追いやるだろう、という大久保利通の思惑があったとされる。
と、なかなかの言われようですが、岩村は後に愛媛県に赴任し、積極的に旧藩士を登用して「民権県令・平民長官」と呼ばれ、功績を残したという。その後は石川・愛知・福岡・広島の県令や知事を歴任。明治25年(1892年)には貴族院議員になっている。明治39年(1906年)死去。享年62。
毀誉褒貶、いろいろな評価があるようですが、いずれにせよ当時23歳であった高村にとって、継之助との談判は、荷が重かったことでしょう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?