ルソー先輩の『孤独な散歩者の夢想』
ルソー先輩の『孤独な散歩者の夢想』
別名『有名人なのに匿名希望』
逃亡中のルソーが、サン・ピエール島にて至った『無為(ファル・ニエンテ)』。ルソーはその感覚をこう語る。
「長い生涯のあいだの移り変わりのうちに、私はこのうえなく、甘美な享楽と強烈な歓喜の時期の思い出が意外にも一番私を惹きつけ、つよく心にふれるものでは無いことを知った。
激しい情念に取り付かれたそのみじかい時期は、どんなに生気にみちたものであろうとも、その激しさのゆえにこそ、生の直線上にまばらに散らばった点に過ぎない。それはごくまれに起こり、すみやかに消え去るのであって、ひとつの状態を構成することができないし、わたしの心が愛惜する幸福とは、たちまちに過ぎ去る瞬間から成り立っているのではなく、ひとつの単純な変わらない状態なのであって、そこには激しいなにものもないが、その持続は魅力を増大させ、やがてそこに至高の幸福を見いだすにいたるのである。
そのような境地にある人は一体何を楽しむのか? それは自己の外部にあるなにものでもなく、自分自身と自分の存在以外のなにものでもない。この状態が続く限り、人は自ら充足した状態にある。他のあらゆる情念をふりすてた存在感はそれ自体、充足と安らぎの貴重な情動なのであって、この世で私たちの心を絶えずこの情動からそらして、その楽しさを掻き乱そうとするあらゆるものを自ら遠ざけることのできる人には、その情動だけで十分にこの存在は愛すべき快いものとなる。」
そんな境地にいるルソーはさらに1581年に公刊された、イタリアの詩人トルクァート・タッソによる叙事詩『エルサレム解放(原題 La Gerusalemme liberata)』から下記を引用する。
「高貴ないつわりよ!どんな真実が
おまえより美しく好ましいというのか?」
ここには義務と善の関係が詰まっている。ルソーは自らそうあったほうが良いという感覚に基づいて善行をするが、それが義務になると途端に嫌な気持ちになってしまった。有名になったルソーは、多くの人から義務的に善を強いられた。ルソーは疲れ果てた。義務が苦手だった。
実際は分からないが、そう考えるほうが、考えが済んだり、勇気が湧いたり、ポジティブになったり、相対主義や虚無に陥ることを避けることができる。そのような『高貴な偽り』は美しいと、ルソーは憧れを持った。結局はできなかったと告白している。
そして。この本の最後の一節はこうだ。
「わたしは才能をたくわえることが貧困にたいするいちばん確実な救いの道だと考え、受けた援助に報いることができるような人間になるために人生を用いようと決心した。」
ルソーは自分から湧き上がる善行は義務に絡め取られてできなかった。『高貴な偽り』は憧れに終わった。しかし、贈与の気持ちを根底に敷いた。
ルソー先輩の話、おわり。
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