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家事は家族への愛情表現? いいえ、生きるために必要だからやるんです。『山の上の家事学校』

 「もっと食べなあかんで!」

 食べないといけないのは私ではない、息子だ。彼が所属する少年野球チームの指導者にアドバイスをもらうたびに、わたしは小さなバツを自分につけられている気持ちになっていた。

 野球をしている彼にとって、今のほっそりした体型が課題のひとつであることは明らかだ。それでも、どうして本人でもないわたしがバツをつけられた気持ちになるのか。指導者たちは純粋に息子のことを思って言ってくれていることもわかっている。指導者のみなさんには感謝しかない。なのに、なぜ。

 これまではその理由を明確に言葉にできずにいたが、『山の上の家事学校』を読んで、理由がわかった気がしている。わたしは、自分のわが子への愛情にダメ出しをされているように感じていた。彼が太れるように、母である私の時間を、労力を、もっと食事づくりに割くべきだろう、愛しているわが子のためならば。そう、誰かに責められている気がしていたのだ。もしかしたら、誰かではなく、自分に、なのかもしれない。

 『山の上の家事学校』は、離婚した男性が、荒んだ生活を見直すため、男性対象の家事を学ぶ学校に入学し、さまざまな事情を抱えた人たちとの関わりのなかで変化していくお話だ。自分がいかに元妻に対して無理解だったかに気づいた男性に「何を今更・・・・・・」と元妻と気持ちを同じくすることもあった。それでも、思いがけず共感した男性の言葉もあった。

「ぼくたちは、家事と愛情を結びつけたくなるし、ケアをしてもらえることが愛情だと思ってしまいがちだけど、それはもしかしたら違うんじゃないかなって」

 あぁ、わたしにも「家事は家族への愛情表現」という思い込みが少なからず、いや大いあった。なんたること!


 山之上家事学校の校長先生は「家事をやるのはその人自身が生きるために家事が必要だから」と言う。たしかに、食事も洗濯も掃除も、自分にだって必要なことだ。それなのに、いつの間にか「家族のために」とわたしは恩着せがましくなっていたように思う。しかも、家事がさほど得意ではないものだから、「苦手なことだけれど、あなたたちのためだからがんばっている」などと、さらに恩着せがましさもヒートアップさせていた。家族にとっては迷惑な話だ。

 一方で、家事や家族のケアに「女性だから」「母親だから」というプレッシャーをまだまだ感じることがあるのも事実だ。私も家族のケアが大きな役割のひとつとしてあり、平日昼間も家族のことと仕事とをなんとかやりくりしつつ生活している。もっと仕事に集中できたら……と思うことがしょっちゅうだ。そして同時に、「母親なのに」今の環境でもっと仕事をしたいと思うなんて許されないことのような、後ろめたい気持ちもあった。

 『山の上の家事学校』のなかでも、子どもと過ごす時間を削って働く罪悪感を抱えながらも、なんとか仕事と子育てを両立させようとしている元妻に対して、元夫である男性はこう言うのだ。「(離婚前の生活に戻って)フルタイムの仕事じゃなくても、前のようにライターでやりたい仕事だけやっていればいいじゃないか。そうしたら、理央(娘)とも一緒にいられる」と。読んでいて、「違う!そういうことじゃない!!」と腹立たしさで胃がぐるぐるした。けれども、その男性への校長先生の言葉が優しくわたしに響いた。

「母親の人生は、子育てが終わってからも続くんですよ」

 そうなのだ、わたしの人生も子育てが終わっても続いていく。だから、私は仕事を手放すことなんてできない。

 そして、家事も続くのだ。家事は自分と家族が生きるために必要もの。それ以上でもそれ以下でもない。そう捉え直そうとわたしは思った。

 愛情表現は家事でしなくていい。「苦手な家事を忙しくてもがんばるのは、家族を愛しているから」そんな回りくどい表現方法じゃなく、わたしは別の形で家族に愛情を伝えよう。

 これからも家事や家族のケアを軽んじるつもりはない。ただ、そこでわたし自身がわたしの愛情をはかって、100%を注げない自分を責めるようなことはもうしない。

 わが家の子どもたちはもう小学校高学年。そろそろわが家の家事学校を開校してもいい時期なのかもしれない。わたしが愛情表現だと思って家事を握りしめていたら、彼らが生きるために必要なスキルを身につける機会を奪うことにもなりかねない。

 家族みんながそれぞれに自分が生きていくための家事を、これからやっていけるといいな。もちろん協力し合いながら。そう考えると、家事をやることがすこーーーしだけ、楽しみになってきた。

山の上の家事学校
近藤史恵(著/文)
発行:中央公論新社

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