#44 怒涛のボリビア一ヶ月。出会いと再会と。
2024年3月20日 miércoles
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思い立って日本を発ってからあっという間に時が過ぎ、また日本へ舞い戻って来た。とはいうものの、感覚的には三ヶ月くらい過ごしたような。
ボリビア入りして二週間ほどは毎日誰かに会っては話を聞き、それと同時にアポ取り、スケジュール調整、日本とのやりとり、と目まぐるしく過ぎていく時間。なかなか友達や元同僚と会う時間もなく。
まあ、仕事をしに来たので、収穫が何もなければ無駄足になる!!という焦りもあり、旧知の障害者関連団体、また新たにJICAボリビア事務所スタッフの女性が紹介してくれた、障害者支援活動団体などへ出向き、会える人に会っておく!という、ギュウギュウのスケジュールで動けたことは本当にラッキーだった。
Feliza[フェリサ]は当事者団体を率いる女性。ボリビア国内の障害者ネットワークをつくり、情報共有、障害者理解の促進活動を実施している。
今回の滞在中、彼女のオフィスには三度訪問し、彼女がさらに別の団体の代表、当事者の親なども紹介してくれた。ちなみに、写真手前の女性、マレニは、二週間前にここに着いたばかり、と紹介された。田舎の村で家に閉じ込められ、家族に見放された状態だったところ、フェリサが引き取ったという。何の障害を持っているかもわからない、と言っていた。
初めて会ったときは表情が固かったが、帰国直前に会った際、よく笑うようになっていた。そんなふうに、社会の目の届かないところで生きることもままならない状態に置かれている障害者を団体に引き入れるようなこともしながら、障害者の人権獲得に向けて奔走している。
私が通っていたIDAIとは違いみんな成人なので、それなりに大人の会話も楽しみながら交流を持ち、楽しかった。
帰国直前には、みんなで味噌汁パーティをしよう!と提案。
写真手前のクラウディア(20代・重度脳性麻痺)も、マレニ同様、以前は家に閉じこもった生活を強いられていたが、今では夜遊びも楽しみ自分の生活を謳歌している。フェリサが、彼女が社会とつながるためのパソコンをクラウディアの両親に用意させたこと、クラウディアを外に連れ出し遊びの楽しさを教えたことが大きい。周囲の「できないだろう」という認識のもと、教育もちゃんと受けさせてもらえなかった彼女だが、私が見るに、賢い人に思えた。過去に日本語も習った、という彼女はいくつか日本の言葉も喋れたし、何より自分の人生を自分で選び行動する強さを持っている。彼女の家族はみんなアルゼンチンに移住したが、自分はボリビアの障害者の権利を守るため自国に残って活動すると決めた、という。
フェリサとの出会いが、確実に彼女たちの人生を変えているという現実を目の当たりにする。
ボリビアの男性優位社会が生む『障害児のママの負担』を焦点に、ママたちの起業支援をおこなっている団体もある。
代表の女性、Liz[リス]にも、かなりお世話になった。
ラパスの彼女のオフィスで初めて会って話を聞いた後、その週末に「コロイコ」という郊外の障害者施設訪問と、そこでカフェの事業を興したママとの面会をセッティングしてくれた。
訪問のちょうど前日(というか直前)、日本時間の土曜日丸一日(ボリビア時間で金曜22:00〜土曜5:00)、日本とのミーティングがある旨を伝え、そのすぐ後の出発は体力的にちょっときつい、と言った私に、「行きの車でずっと寝てればいい」と、結局、土曜の朝6:30にラパスを出発しコロイコへ連れて行ってもらうことになった。
当日、リスが迎えに来てくれ車に乗り込むと、意識なくなった?というくらい、すぐに眠りに落ちる私。かなりボッコボコの道中で、体が跳ね上がり何度か起きるものの、目が覚めると目的地に着いていて、リスが笑いながら「おはよう」と言う。
車を停めた後、どうやらいつも寄るらしいカフェにて朝ごはんを食べる。
そこからタクシーに乗って10分ほどで施設に到着。代表のシスターに案内してもらった後、起業したママと家族に会う。私は、みんなで話し合いをしているのをただただ、聞くかたち。
やはり田舎の方は、資金を得る方法として野菜栽培、植物の生育に力を入れている様子。なので、そういった知識を持っている専門家に協力してほしい、という声が上がる。
ちなみにここらへんの地域は「アフロ・ボリビアン」と言われるアフリカ系の(植民地時代の黒人奴隷の子孫にあたる)人たちがよく見られる。
カルナバルで見る、Saya[サヤ]という音楽が彼らのオリジナル。他のものと比べてリズムが違い、やはりアフリカを感じるので、ぜひ聴き比べてみてほしい。
13時頃施設を後にして、ラパスへ戻る。
ラパスとは違う高温多湿の気候と、睡眠不足で疲れ果てていた私は、リスとの会話もそこそこに、再び車内で眠りにつく。
ラパス市内に戻り目が覚めて、見たことのある景色の中に。
不意に、リスが「アツコ、どこにいる?」と聞いてきたので、家の場所を言うと、「違う、それは知ってる。今どこにいるかアツコがわかってるかどうかテストしてるの」と笑った。疲れは感じるが、いい一日になった。
がしかし、、、次の日からしっかり体調を崩し、丸三日は使いものにならなかった私。標高が高いと、体力の回復に時間がかかる。這々の体で飲み水を確保すべくフラフラでかける。生きねば。
リスはまた、他県コチャバンバ(インクルーシブ都市とも言われている)で自然派コスメの事業で起業したママも紹介してくれ、その次の週末は彼女に会って話を聞くこともできた。
コチャバンバには、日本人の経営する障害者入居施設の募金イベントに参加する予定もあったので、それと併せて会えることになった。
一日半の滞在であっという間にコチャバンバでの時間は過ぎ、ラパスへ戻る。他の都市からラパスへ戻ると、いつもホッとするのはなぜだろう。
酸素うすいのに・・・
コロイコへ行ったあと体調を崩したおかげで、訪問スケジュールをキャンセル。回復に時間がかかったため新たな予定も入れづらく、ここでようやく友達や元同僚と会う時間ができた。
出かけられるようになった体で、元配属先の職業訓練校に挨拶に行った私。
病み上がりだと言うのに、「今晩出かけよう!」と、勝手に「今晩やることリスト」を作るエンジニアの彼。
退職した元同僚の新たな仕事場(オーケストラの広報)で、オーケストラの練習を見学した後食事し、ジャズのライブへ行って3時まで遊ぶ、というひどいスケジュールを提案してきた。
道中何度も、エンジニア二人とタクシーでの移動。目まぐるしく場所を移して遊ぶ彼ら。どんだけ元気やねん。
翌日はボリビア人の友人と遅めのランチ。近況の話をしつつゆっくり過ごす。この日は「女性の日」だったので、友人はお祝いの花を用意してくれていた。毎日、なんらかの日、と言ってみんなワイワイしてるなあ、という懐かしいこの感じ。友人たちとは、今回はあまり会う時間がなかったが、ちょっと間のホッとする時間。
何人か生徒に会えたのも、またうれしい。
こんな感じで、日々誰かしらと会って時間を共有するラパスでの生活が普通になってきたところで、また日本へ帰る、そんな感じの一ヶ月。
最後に訪問した施設は、ラパスから車で一時間ほど離れた郊外にある特別支援校。都市部とは環境が異なるせいか、通学する障害者の雰囲気も穏やかな感じを受けた。
こんな感じで、バタバタではあったが、充実した時間を過ごせてありがたかった。私のわがままに協力して、助けてくれた現地の人たちのおかげです、ほんとに。ムチャス グラシアス!!!
帰国前、IDAIの子たちとも味噌汁を一緒に作り、彼女たちの描いたイラストからデザインしたグッズを渡して帰ることにした。
前回の帰国時は彼らに「日本へ帰る」と言えなかったけど、今回は言えるようになった私の変化は、この子たちの成長が見られたからかもしれない。
↓彼女たちのグッズ、他のメンバーのイラストグッズもこちらから購入可能です。
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【番外編】帰国の途
行きと同じく、リマ(ペルー)、ヒューストン(アメリカ)経由で成田まで。
リマで丸一日のトランジットがあったため、リマ在住の友人と街を散策。
やはり食事のレベルがボリビアと違うことを念押ししてお伝えします。
リマの出発が1時間半遅れ、乗り継ぎが3時間しかなかったヒューストンに着いて(その時点で乗り継ぎ1時間に!)ダッシュして入国審査〜搭乗チェックを済まし、搭乗5分前に機内に。ホッとしながら映画を見始めると、なかなか動かない様子の機体。エンジン整備に時間がかかり、気づけばもう出発予定時刻から3時間が過ぎ・・・一度機体へ出され、と、初めての大幅遅延を経験。あんなにダッシュしたのに・・・
結局5時間半遅れてヒューストン出発。
成田着が夜遅くなり家まで帰れなくなった私は空港近くのホテルに泊まり、翌朝帰ることに。
翌朝、空港から東京駅行きのバスの中、隣に座る日本人の女の子が、英語翻訳を使って「このバス、東京駅に何時に着きますか?」と聞いてきた。
え???
日本語で返すと「え!!日本人ですか?」と。
彼女の期待を裏切るのもなんか悪いか、と、若干カタコトの日本語で返す私でした。
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