ブライチャーの英会話レッスンが教えてくれた意外な子育てのヒント
「NO!NO!わたしはそう発音してないよ。こうだよ」
Skype越しに、先生はぼくの間違った発音と正しい発音を交互に発音してくれた。
あぁ、そうだった。ここはよく間違えちゃんだよな。
「これで合ってる?」
「O K!よくできてる!」
ぼくがブライチャーの発音レッスンで、ミスを指摘されない日はない。
日本人にありがちなRとLの取り違えや、イントネーションを置くところを間違えたり。
先生がぼくの発音を注意深く聴いてくれているのが、すごくよくわかる。諦めずに根気強くつき合ってくれるのが本当にありがたいし、嬉しい。
だけど、レッスンを受け始めたばかりの頃、ぼくはミスを指摘されるのが辛かった。
まるで、自分がダメなやつであるかのように感じられたからだ。
これは、赤ちゃんに戻ってしまったような無力感だけではなく、ミスの指摘と人格否定をセットで感じていたからだと思う。
もちろん、先生はぼくの人格否定なんてしていない。
これは、ぼくの心の奥で生まれている無意識の幻覚なんだと思う。
なぜ、ぼくは単なるミスの指摘を、人格否定とセットで受け取ってしまうのだろう?
これを考えることは、ぼく自身の物の見方に大きな影響を与え、子育てについても影響を与えることになった。
きっと、多くの人が無意識のうちに、この幻覚に囚われているんだと思う。
この幻覚の存在に気がつき、抜け出そうとすることで、今よりちょっとだけ、生きるのが楽になる。
そんな気がするんです。
◇
先生は一生懸命、本当に丁寧に教えてくれる。だけど、ミスを指摘されたその一瞬、ぼくの心のなかでもう一人のぼくがこうささやくんです。
もう一人のぼくは、ことあるごとにぼくの自己肯定感を削ってくる。いつでもそのチャンスをうかがっている。
ぼくが隙を見せれば、いつでもぼくの心を乗っ取ることができるんだ。
心を乗っ取られると、ぼくは無力感にとらわれ、一生懸命がんばっていたことでも途中で投げ出したくなってしまう。
好きでやっていたことでさえ、義務感にとらわれるようになる。
もう一人のぼくはいったいどこで生まれたんだろう?
思い返すと、子どもの頃から「ミスの指摘と人格否定」はセットでついてきていたような気がするんです。
幼児期から小学校では、褒められることが少なく、常に満点を目指すよう叱咤され、母は「悔しくて泣くまで勉強しろ」とヒステリックに怒鳴り散らし、小中学校では部活の顧問が暴力的に(時には実際に殴りながら)怒鳴り散らす。
もちろんいい思い出だってあるけど、「ミスの指摘」の場面を思い返すと、親や教師の怒り狂った顔がまっさきに浮かんでくる。
(こんなレベルで満足するなんてダメだ!もっと高みを目指せ!)
直接言葉にされることもあれば、そういったニュアンスが感じられることもありました。
いつもそう言われていたような気がするんです。
もちろん、高みを目指すことで得られるものもたくさんあるとは思います。
成績を上げることはできたし、運動もある程度はできるようになった。大人になってからも「高みを目指す」癖はついているので、収入をあげようと努力することもできた。
だけど、高みを目指す気にさせるために「人格を否定」するようなショックを与えるのは、なにかが違うと思うんです。
小学生の頃、家にも学校にも居心地の悪さを感じていたぼくは、近所の人がボランティアで運営している私設図書館に入り浸っていました。
普通の家なんですが、一つの部屋だけ本で埋め尽くされている部屋があって、壁中に本棚があり、小学生向けの本だけが集められているんです。
その方は本が大好きな方で、確か何かの研究者をやられていた方だったと思います。引退後の趣味で私設図書館を開いていたんです。
ぼく以外にそこに行く子どもはいなかったけど、ぼくはその空間が大好きでした。
誰からも怒られず、自分の世界に浸ることができたからです。
その家の方は本を読むぼくを見つめ、おすすめの本をいつも差し出してくれました。ぼくが本を読み終わると、これも面白いよと言ってすすめてくれるんです。
あれから30年以上経った今でも、慈愛に満ちたその人の視線を、ぼくははっきり覚えています。
誰からも否定されないその空間が、ぼくにとって唯一の居場所だったんだと思います。
当時のぼくと同じくらいの年齢になったぼくの子どもたちを見ていると、ぼくはかつての自分の親や教師と同じことをしているんじゃないかと不安になることがあるんです。
自分は「ミスの指摘と人格否定のセット」を再生産しているんじゃないかって。
◇
子どもたちにちょっとしたミスの指摘をすると、たまにおおげさと思えるほど泣き崩れる時があるんです。
(そんなに泣くほどのこと?)と戸惑うのですが、彼らにとっては「ちょっとしたこと」ではなかったんだと思うんです。
自分を大きく否定されたと感じていることが、彼らの様子や言葉から伝わってくるんです。
おそらく、ぼくもまた、子どもたちにミスの指摘をするときに人格否定を感じさせるような言葉や声色を使っているんです。
初めはそんなことないと思っていたし、信じたくなかったんですが、ブライチャーのレッスンを思い出すと、どうも子どもたちはぼくと同じような感覚を抱いているようなんです。
ただ違うのは、ブライチャーのレッスンでぼくが感じた人格否定は、ぼくの心の奥から生まれた幻覚だったけど、子どもたちが感じている人格否定はリアルに存在するものだってことです。
子どもたちのことは大好きなので、ぼくは彼らの人格を否定するようなことなんてしたくないんです。
そんなことをしているつもりだってない。
だけど、ぼくの子どもたちへの言動をあらためて冷静に振り返ると、認めたくないけど、ぼくはかつての自分の親や教師と同じことをしているんだと思うんです。
ミスの指摘をしているつもりでも、彼らの人格を否定するような言葉や声色を使っているんです。
彼らを痛めつけたいなんてこれっぽちも思ってないのに。
強い言葉を与えれば、彼らは言うことを聞くとぼくは思っているのかもしれない。
ブライチャーの先生は根気強くぼくの間違いを指摘してくれ、ぼくが間違えずにできるようになるまで教えてくれる。
単語から抜けてしまうRの発音、BとVの発音の違い、アメリカンアクセント特有の音の変化。
先生はシンプルに間違いを正してくれて、ぼくができるようになると褒めてくれる。簡単には褒めてくれないけど、だからこそできた時の喜びが大きい。
すごくシンプルですよね。簡単に思えますよね。
だけど、ぼくは育児においてこれができていないんだと思う。
ぼく自身がこういったことをされた経験がないことが、できていない原因のひとつなのかもしれない。
正直なところ、ブライチャーで先生がたまに褒めてくれたときに、ものすごく嬉しいんだけど、どう反応したらいいかわからなくて戸惑ってしまうんです。
褒められるなんて経験、今までにほとんどなかったから。
ぼく、子どもたちには同じような思いをさせたくないんです。同じ世界を再生産したくないんです。
そのためにできることって、まずはぼく自身が「ミスの指摘と人格否定」という呪いから抜け出すことだと思うんです。
ミスの指摘をただの指摘と受け取り、人格否定と切り離して考える。
誰かにミスの指摘をするときも、人格否定を含ませないように気をつける。
子どもたちにも、同じように対応していく。
たぶん、時間もかかるし、根気もいると思う。だって「怒り」を使った方が楽だし、相手もその時は言うことを聞いたように思えるから。
だけど、そのせいで自分への自信を無くし、褒められることに戸惑いを感じ、「自分を認められること」に違和感を感じるようになってしまうのであれば、何かが間違っているんだと思う。
ぼく自身の中に棲みつく呪いを消し去るためにも
子どもたちが、褒められることを素直に受け止められるようになるためにも
子どもたちが、「自分を認められること」に違和感を抱かないようになるためにも
毎週のレッスンをこれからも受け続けようと思う。