【雑感】知的障害の方の高校受験に関するニュースから思った「差別」の話
昨日は、私が最近テーマにしている「無自覚な差別」にかかわる話が二つも話題となった。一つは、知的障害者の仲村さんという方の高校受験をめぐる話、もう一つが、東京大学の入学式での上野千鶴子さんの祝辞をめぐる反応である。今回は特に前者についての雑感を書いておきたい。後者は以下より。
差別とは
そもそも「差別」とは何か。社会心理学者の唐沢穣は、「ステレオタイプ」や「偏見」と紐づけて次のように定義している。
ある集団に属する人々に対して、特定の性格や資質を「みんながもっている」ように見えたり信じたりする傾向が「ステレオタイプ」、これに好感、憧憬、嫌悪、軽蔑といった感情を伴ったものが「偏見」、そしてこれらを根拠に接近・回避などの行動として表れたものが「差別」である。(唐沢,2018)
社会学者の野口道彦は次のように定義している。
差別とは、「(1)個人の特性によるのではなく、ある社会的カテゴリーに属しているという理由で、(2)合理的に考えて状況に無関係な事柄に基づいて、(3)異なった(不利益な)取扱いをすること」と定義できます。(中略)ほとんどの人が差別だとみなさない事柄でも、見方を変えれば矛盾しているのではないかと考えられるものもあります。このようなとらえ方は、時代や社会状況などによっても、変わっていきます。では、ほとんどの人が差別とみなさない状況は、なぜ生まれるのでしょうか。それは、(1)と(3)との関係をつなぐ(2)に、この問題を解く鍵があります。つまり、差別とみなさない側は、(1)と(3)との関係を、理にかなったものだと考えています。逆に、「差別だ」と訴える側は、(1)と(3)との関係を不合理なものだと考えています。
知的障害者の高校受験
重度の知的障がいがある仲村伊織さん(16)=北中城中卒=が今年3月、2度目の沖縄県立高校受験に挑んだが、不合格となった。受験した1次募集の全日制、2次募集の定時制の2校はいずれも定員割れだったが、県教育委員会は「一定の点数が足りず、入学しても高校の教育課程をこなすことは難しい」としている。
仲村さんの家族は3月28日に県教育庁を訪れ「テストで点数が取れないことが知的障がいの特性であり、今の選抜制度では本人の努力が反映されない。2次募集でも学力選抜で定員内不合格とされることは差別だ」と批判した。(中略)
今回の不合格について仲村さんの両親は「合理的配慮に改善は見られたが、テストで得点すること自体が難しい息子の障がい特性が考慮されていないことは変わらず、努力を評価してもらえない」と話している。
興味深いニュースである。ただ、「知的障害を持っている方が、テストの得点が足りずに高校に入れないことを『差別』だと叫んでいる。」、そういう風に見えるからか今回の件を「差別」と捉えている人はあまり多くないように感じた。
だが、これが「差別」ではないと断言することは難しい。はじめにPsycheRadio さんのツイートを引用させていただきたい。
正直なところ、言いたいことはほとんど引用したツイートに書いてあるので、わざわざ書く必要もないかもしれないが、一応記しておく。
今回の件は、現代社会において肯定されている「能力主義」という名の「差別」に対する問題提起と考えることができる。この社会では、ほぼ無条件に「能力」による序列化が肯定されている。「能力」限定で人を序列化するという見方には否定的な人でも、その多くは何かしらの形で「能力」を組み込んで序列化を考えている。現時点では「能力」の代替案もないし、資本主義の基盤となる必要な価値観であり、これが肯定されることで社会が成り立っているとも言える。
かつての序列化の根拠は「出自」や「門戸」であったが、現在はこうしたものによる序列化は「差別」とみなされる。カースト制度などもよい例だ。しかし、かつての社会は、そうした価値観によって成り立っていた。また、そうした価値観に「差別」という認識が付与されて価値観が転換したのである。すなわち「能力」という序列化の根拠も絶対的なものではなく、将来的に「差別」のロジックとして認められる可能性があると考えられる。
むしろ、先のツイートにもあったが、能力の「先天的」な規定性について解明が進む中で、実は「能力」による序列化が差別でないという根拠は薄れている。そして、能力を持っている人は「能力による差別は必要だ・マシだ」と訴えるが、能力を持っていない人はそうした主張を受け入れられるだろうか。そこにあるのがまさに「無自覚な差別」なのではないか。
もしも、この社会が「そろばんができるか」で序列化される社会になれば、そろばんが得意な人は嬉しいだろうが、わたしも含めたそろばんのできない人にとっては「不当な差別」になる。この社会が「顔立ち」で序列化される社会になれば、イケメンや美女にとっては問題ないだろうが、私のような顔立ちが微妙な人間にとっては苦しい日々になるだろう。
むしろ、知的障害を持った人にとっては、「能力」による序列化よりも、「出自」や「門戸」による序列化の方が、よっぽど「マシな」差別とすら思えるかもしれない。
「無自覚な差別」と向き合うために。まずは、自分がたまたま持っているものを「持っていない」人のことを想像する力が大切である。そしてもう一つ、完全に差別から解放されて生きることはおそらくできない。そうしたことを自覚しながらも、諦めるのではなく、自らの「差別性」と戦い続けようとするマインドが大切である。そんなことを感じた。
少し横道にそれるが、記事で言及されたような「努力」が評価される社会が望ましいかと言われれば難しい。「努力」が主観的な指標だからである。言い方は悪いが、今回の件でも、受験勉強をどのくらい頑張ったのか「評価」することは私にはできない。わからないからである。保護者の感覚と、本人の感覚と、これまでの先生の感覚と、障害当事者の感覚と、第三者の感覚は異なるかもしれない。いや、おそらく異なるのである。だから「努力を評価できないから制度がおかしい」というロジックをそのまま受け入れることはできない。
そして何より、実名報道までされる中で、この子に与える影響も心配である。世間からのバッシングやレッテル貼りにあわないか懸念している。また、高校に進んで「幸せ」なのかという問題、もっと言えば、それが純粋な「本人の」意思であり、親の期待や強制ではないことを記事からは読み取れないという懸念もある。「差別」とは別の軸で、ひとりの障害者の「幸福」についても考えなくてはならない問題であると感じた。