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「怪物」のラストについて

もちろんネタバレを含みます

「ラスト」って言ってるんだから。そりゃもうド級のネタバレです。

一部ネタバレを含まない記事はすでに書いておりますのでまだの方は以下もよろしければどうぞ。

年末年始に映画「怪物」を見て、1週間以上経過しましたが未だにその世界から抜け出せずにいます。SNSを見ると1年単位で浸かっている方もいらっしゃるようなので、まだまだ掛け湯程度ですね。

で、ハマった結果としてブログやYouTubeなどの感想を見あさりました。とりわけ多かったのはラストシーンについてです。そしてそれはつまり「湊と依里は生きているのか?死んでしまったのか?」というものです。そしてカウントはしてないですが圧倒的に死んでしまったというコメントが多かったように思います。

結論から言いますと私は2人は生きていると理解しました。以下にそう考えた理由をつらつらと述べますが、反対の意見をお持ちの方はガーっとスクロールして最後の段落だけでも読んでいただけたらなと。

レビュー動画

まずは、見た中でも自分にとってしっくり来たレビュー動画を紹介させてください。というのも、これらの動画の解釈が既に自分の一部になってしまっていて悪気なく自分の意見かのように語ってしまうかもしれないからです。

「しの兄弟の深掘り感想ラジオ」さん

【ネタバレ感想】すごすぎる脚本!『怪物』とは何についての映画だったか

無限まやかしさん

どっちでもいい

こんな記事を書いておきながら、この映画の結論がどうだったのかというのは本来どうでもいいんだろうと思います。というか、そうやってあれこれ詮索して自分の解釈で世界を見ること自体についての疑問を投げかける映画ですし。
とはいえ、やはりどうしても思うところがあったので書きました。かーいぶつ、だーれだ。そう、私です。

情報に関する誤解

映画本編では是枝監督の性質もあってかあえて説明が省略されている部分もあるので、一見すると誤解してしまう情報もあったようです。市販されているシナリオブック、ノベライズによる補強も借りつつ、あくまで映画本編準拠で考えたいと思います。

電車の外に出たこと

土砂崩れで土に埋まった電車から外に出てくるというので、ラストは電車の中で二人で見た夢という解釈になったかもしれません。
映画本編からも一応わかりますが、第2幕で早織と保利が窓を開けたように、電車は横転していました。そして第3幕で湊と依里が電車から出てきたときにうっすら映っているように、横転した電車の窓ガラスがなくなったところから水路へ降りてきています。
この辺りはノベライズでもそのように描写されています。

そもそもどうやって死ぬの?

土砂崩れとはいえ電車自体が押しつぶされたわけでもなく、実際大人二人が横から上に乗れるほどのものでしたし、横転しただけで命にかかわるとも思えません。

天気と時系列

早織と保利が電車に向かっているシーンは薄暗く台風で雨が強く降っていた、湊と依里が水路から出てきたシーンでは青空だったというシーン。
これを見て夜→翌朝だと解釈されているのが多かったのですが、これは早朝→朝なんですよね。第1幕で早織が湊の不在に気付いたのは早織がベッドから起き上がってすぐでした。時計も一応映ってはいますがはっきりとはわかりません。よーく見ると午前5時ぐらいだろうとわかるものの映像を止めてようやくわかるレベルです。シナリオブックでは6時前となっていました。

台風は前日の昼頃に風が強すぎてクリーニング屋ののぼりをしまうシーンが描写されている通り既に接近していました。ちらっと映る夜のテレビニュースでは台風は鹿児島に接近していて午後5時に鹿児島県佐多岬の南沖にあり、九州と四国の一部が強風域に入るような状態、暴風域はなかったようです。あれ?諏訪まで台風は来たのかな?だとしたらだいぶ進行が速いような。これミスかもしれないから東映に投書しとこうかな。そうです、私が保利です。身もだえするほど楽しい。

ありうる可能性としては、水路の中では嵐のため早織と保利の声は2人に届かなかった、そうこうしているうちに別の場所を探しに行ってしまうなどした、少しの間水路で嵐が去るのを待った、すると間もなく空は晴れた(台風一過ってわりとそんなもん)。

それなら葉っぱが乾いてるのおかしくない?とは少し思います。

柵については、嵐で飛ばされたんでしょう。あんなに頑丈そうなものが壊れるのかしらとは思いますが、そういう事にしておきましょう。全く不可能なことではありません。事実は小説より奇なりです。ん?

一応インタビューで監督がそういってました。

セリフ

水路から這い出た後のセリフはこうでした。
依里「生まれ変わったのかな?」
湊「そういうのは無いと思うよ」
依里「ないか」
湊「ないよ、元のままだよ」
依里「そっか、よかった」

これだけでも、生まれ変わり=死を否定しているメッセージであろうと思います。

周辺情報

映画本編から直接は読み取れない、ノベライズ、シナリオブック、インタビューのみの情報を拾っていきます。これらは映画本編の見方の参考にこそなれ、決定づけるものではないです。自分に言い聞かせるつもりで改めて書きました。

ノベライズ

ノベライズ版では「そっか、よかった」から二人が走り出すまでの間に次の記述があります。

僕たちの身体も"脳"も、もとのままだ。
だって星川くんの笑顔はあんなに美しい。

佐野晶『怪物』宝島社文庫

これは、明確なアンサーだろうとともいます。身体が元のまま、つまり生きていることを表しています。

世界は、生まれ変われるか

インタビューなどでも監督が述べられていましたが、脚本の最初に「世界は、生まれ変われるか」という一文を書いたそうです。メイキングにも映っていました。
豪華版ディスクの特典であるブックレットに掲載された絵コンテでは、最後のシーンで二人が走っているところに「みなとー!」「星川ー!」という声がして、それに振り返って「世界は、生まれ変われるか」と二人が言って、再び走り出し終わることになっていたようです。ポスターにもなっている、鉄橋の前で二人が振り返っている画ですね。
監督はメイキングなどでも二人を追い詰めた世界の側が変わるべきだというようなことをおっしゃっていました。
映像があまりに美しく、それゆえに天国へ行ってしまったという解釈を生んだあのラストシーンは、世界自身が生まれ変わったことが表現されているのではないか、と思います。

作文を読んだのは~生まれ変わる保利と早織

保利先生が作文の横読みに気づいたシーンは長めに印象的に取られていたので、「保利先生が何かに気づいた」ということは疑いがありません。それが何だったのかまでははっきり書かれていません。少なくとも湊が依里をいじめていなかったこと、何なら仲良しだったことまではとりあえずわかってないとおかしいでしょう。
その後麦野家の前で保利が叫んだ言葉。「麦野」「ごめんな」「先生間違ってた」「麦野間違ってないよ」「なんにもおかしくないんだよ」。この「なんにもおかしくないんだよ」が気になります。湊の依里への好意を指していたと読むのが自然ではないかなと思いましたがいかがでしょうか。「間違い」まではいじめのことかなと思うのですが、いじめの事実誤認を指して「おかしくない」というでしょうか?
そして作中で「豚の脳」について依里の父親清高の発言と、湊がどこからかそんなことを言い出したことを保利は知っていました。そこで清高→依里→湊のラインがつながり、依里と湊の「頭の中」が「普通」と違うというメッセージを受け取ったのではないでしょうか。そして保利は超活字中毒でありその手の推理には長けていたのであれば、そこから察することもできたのではと思います。
さて、保利先生が湊と依里の関係に本当に気付いたんだとして、もう一つ気になるカットがあります。それは保利先生が麦野家に到着し、早織と邂逅した後、誰かが作文を読んでいるシーンです。誰が読んでいるのかはわかりませんが、保利は自分が気づいた事実を早織に伝えたんじゃないでしょうか。それはそれでどうかとも思いますが「ほりセンならしゃあない」とも思います。
その後車の中で早織が「小さいころから目を覚ますといつも泣いているんだよ。好きな人がいなくなる夢を見ていつも泣いてるの。優しい子なの。」と言っています。これは湊が依里のことを好きだということを知った後のようにも思います。ノベライズでは保利が早織に作文を見せたことは明記されていますが、早織がそれをどう受け取ったかはわかりません。
ただ、世界が生まれ変わるというテーマを元に考えると、早織が湊のことを受け止めることができるようになったという意味の描写ではないかと推測します。

「妄想」と「現実」

シナリオブックとメイキング映像の話。
シナリオブックでは電車倒壊の後「走っている電車の中」でかいぶつゲームをするシーンが挟まれていて、かいぶつゲームの答えを言ったとき「そう言った瞬間、現実に戻る。」となっています。その後早織と保利が呼びかけるところに続きます。
メイキング映像でも依里を演じる柊木陽太さんが監督に「ここまでは妄想でここからは現実?」というようなことを言っており、また未収録シーンにもそのシーンがあります。
シナリオ段階では少なくとも、湊と依里が生きていることは現実でした。

インタビューで

どのインタビューだったか見つけられていませんが、見たインタビュー動画の中で坂本氏も是枝監督も二人は生きているものと語っていました。そう思いたいというトーンのものから、言い切っているものまで。

「死んでしまった」という解釈に潜む意識

レビュー動画をいろいろ見ていく中で一番確かにと感じたのが、「二人はこの世では幸せになったらいけないのか」というような趣旨のコメントでした。「二人はあの世で幸せになりました」だったら、それこそ何の映画だったの?という話ですよね。
翻って、やっぱりあのラストは2人は死んでしまったんだと思うという解釈をしてしまうその裏には、湊と依里のような関係はやっぱり現実では受け入れられないよねという潜在意識があるのではないかと考えるに至りました。というかそのものずばりそう言っているレビューもありましたので。二人は2人だけの世界で幸せになったんだよねとか、あの世で幸せになったとか。
前回の投稿でも清高を(虐待はさておき依里を受け入れられないという気持ち自体を)否定するのはどうなのというようなことを書きました。それは変わりません。当事者の一人として昨今のポリコレ棒ならぬ多様性棒の攻撃性には考えさせられるところがありますので。
とはいえ世間様が未だそのような潜在意識をお持ちなのだとしたら、それはとても切なくて悲しいことなのだなと思ってしまいます。

世界は、生まれ変われるか。

メタ的視点

(2025年1月21日追記)
本記事を投稿した後にも色々なレビューをみましたが、やはり圧倒的に2人が死んでしまったと結論づけている方が多いなと感じます。死んでいる、またはどちらとも取れるで体感8割ぐらい。そして自分自身も最初に通しで見たときにはやはりそう受け取っていました。それは上述のように説明が必要なほどに2人が死んでいると理解する方が自然だからでしょう。特に眩しすぎる光に向かって2人が走っていくところなんてこれまで創作物に触れてきた数が多ければ多いほど「そういう表現なんだ」と受け取る方が素直でしょう。国語のテストならそっちが正解になっているかもしれません。

だが、ちょっと待ってほしい。この映画、おんなじこと第一幕、第二幕でやってるよな。つまり、早織視点で見た片方のスニーカー、謎の断髪、水筒の泥、湊の証言、どれをとっても「湊がいじめや体罰を受けている」と解釈する方が自然です。むしろここで「実は同級生と親密な関係になっていてその子がつけた火を消すために水筒に水を入れてそのときに泥が入ったんだよ」なんて言い出したら「はぁ?なに言ってんだこいつ」って思うでしょ。

つまり、2人が死んでしまったと取れるような描写をあえて残し観客を誘導し、一方で「自分が怪物なのかもしれない」というところに行きつきつつラストについてはやっぱり見た通りに「自然」や「常識」で覆って見てしまうことをすごくメタ的に、いわば挑戦的にぶつけてきているのでは?もしそれが本当だとしたらつくづくとんでもない作品ですね...

という、「穿った見方」でした。

(トップ写真は映画「怪物」公式サイトより引用)

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