天才じゃない側の僕へ。
ほんものの天才と、そうじゃない人たち。
ほんものの天才は、世間に対して、意見を言ったり、twitterで不毛な言い争いをしたり、しないし、興味もない。
天才の人は、難なく、得意分野で、結果を残すし、楽しそうに、やっているものだ。
天才になれなかった、人たちが、頑張って勉強したり、社会で意見を言ったり、世の中をどうこうしようとしだすのだ。
天才な人たちは、自分の好きなことを突き詰めて、楽しく、ずっと没頭しているだけだ。
人々は、大抵、自分が平凡な人間だなんて、思いたくなくて、特別になろうとして、無理に、勉強したり、賢そうな考えを述べようとするが、基本、意味のないことなのだ。
言ったところで、どうしようもないことや、不毛なことが殆どだ。
学者の言っていることでさえ、基本は、不毛で、一部の、天才的な人の足を引っ張ているのが、世の常である。
大事なのは、天才の足を引っ張らないことだ。
のびのびと、好きなようにさせることなのだ。
僕自身、天才側ではなかった、ただの凡人で、普通なやつだ。
天才じゃないやつでも、やり方を学べばできるようになるというのは、酷だ。
天才じゃ、ない人でも、やり方、方法を抑えれば、できるようになる。
というので、よく方法論の本があったり、するが、あれは、残酷だ。
方法論は、できる人とできない人が出てくる。
方法論で、上手く行く人もいれば、行かない人もいる。
結局、方法を踏んでも、本物の天才には、遠く及ばないし、ある程度には行けても、生まれつきの才能は越えられない。
天才じゃなくても、できることはあるし、社会で力を持つことはできるが、力を持った時、どれだけ、天才たちの邪魔にならないか、が大事だ。
天才はエリートとかでもない、意識することなく、できてしまうものだ。
実力とも、違う、好きで、やってれば、できるみたいなやつだ。
競争する必要もなく、ただ、楽しくやってれば、なんか、発見した、とか発明してしまったというのが、天才である。
僕は、バカで、天才とは程遠い存在だ。
けれど、人として、生を受けて、健康な身体を授かり、生きていることを許されている。
僕は、大したことはできないし、社会で、えらくなることもないし、研究者にもなれなかったが、生きている。
社会を変えようとも思わない。
子供だけは、蔑ろにしない大人でありたい。
最低限、天才の邪魔をしない存在ではありたい。
僕は、落ちこぼれだ。
だけれど、生きていることを許されている。
ありがたいことだ。
普通に、飯がくえるし、歌も歌える、文章も書ける。
恋愛だってできるし、ともだちはつくれるし、結婚して、子供だってつくれる。
生まれつきの身分や力、に意味などあるのだろうか。
能力がないのに、無理に勉強をしたり、仕事をして、エリートになることに、意味などあるのだろうか。
時々、思う、本当にできるやつは、ずっと没入してるし、好きでやってるだけだ。