〈写実画モデル〉と〈不気味の谷〉-「べてるの家」の当事者研究を手がかりとして-
写実画の価値について5年くらい考えている。
写真と見分けがつかないような写実画はその点だけで評価に値するのだが、それが写真と一致した瞬間にその価値がほぼ0になる、という性質も併せもっている。簡単にコピーできる写真にはほとんど価値が認められないが、それが少し不完全に寄って「限りなく写真に近い」になると価値が釣り上がる。
こういうモデル、つまり、現実との類似性が高まれば高まるほどにその価値が上昇するのだが、同一になった途端その価値を失うような関係を表現する構造を<写実画モデル>と呼ぶことにしよう。
先日、知人と話しているときに、
「自分のあり方に名前をつける人たちは、その名前がつく他者と連帯することによって安心・安全を得ることを目的の一つとしているのに、それが徐々に細分化することで連帯の可能性が形骸化してしまうことをどう考えればよいか」
という話があった。
たとえば、LGBTQのようなセクシュアリティ分類が世界の複雑性(現に、世界は無限に多様である)を分類の多様性(男女という二元論ではなく多元性へ)というモデルに表現しようと試みるとき、当然その分類は、できるだけ多様に、できるだけ複雑性を忠実に再現するような仕方で変化を進める。すなわち、一種の<写実画モデル>として機能し、無限に複雑な現実との類似性を高め続けることによって、われわれの認識を拡張する。
しかし、先に紹介した発言に見られるように、際限なき細分化はそれぞれの分類に属する人の数を徐々に減らしていくのだから(たとえば、「男性」より「ゲイ」が、「ゲイ」より「デミセクシュアル」が少ないというしかたで)、究極的にはスペクトラムをそのまま表現するような、つまり、無限に多様なセクシュアリティそれぞれに対応するようなしかたでの分類が実現されると予想される。そしてそこでは、連帯の可能性が限りなく0に近づくために、個人が個人として声を上げることと違いがなくなってしまうのではないか、という懸念が生じる(これが、写実画が写真に限りなく近づいたことで価値を失ったことに類比されている)。
これはジレンマになっているのではないか、とまずは考えてみる。人間が多様なあり方をしているのは紛れもない現実であり、その多様なあり方それぞれが一様に、幸福を侵害されずに生きられる世界を実現することは自明に望ましいことである。そしてそのためには、マイノリティの解放を連帯によって訴える必要が生じ、連帯のための名前を求める。分類のためのモデルに名前が増えていくにつれ、連帯からの阻害の回避やより微細な現実認識のために、モデルに属する分類名はさらに数を増す。「Xの権利を尊重する」という立場を取るためには、まずそのXに代入可能な名前を得る必要があると考えるからである。しかし、数が増えるにしたがってそれぞれの名前をもつ人の数は減っていくと考えられるので、連帯の可能性は徐々に小さくなっていく。究極的には、無限に細分化された名前がモデルを構成し、それはもはや名付けの前の複雑性をそのまま直視することと違いがなくなってしまう。これがジレンマの内容である。
では、そもそも名前などつけなくてよいのだろうか。誰も自らの状態に名前をつけず、ただ状態をありのままに語ればよいのだろうか。もちろんそれもとりうる有力な選択肢の一つだが、我々が名前を求めることの基礎にはおそらく、「自分の状態には名前がついているんだ」という「不確実性の排除による安心の希求」がある。そしてそれは、容易に手放せる欲求ではないと私には思われる。名前をつけることにはジレンマがあり、名前をつけないことにも現実的な実現の難しさがある。この二つのレベルのアポリアをどう乗り越えればよいのだろうか。
ここまで考えてみて、「べてるの家」の当事者研究事例がこのアポリアを独自のしかたで突破しているのではないか、と思い至った。「べてるの家」では精神障害当事者の方々が自らの苦しみに独自の名前を付し、それについて「当事者研究」を行うという実践が行われている。
これは、社会的連帯についての<写実画モデル>、その臨界領域を突破した実例だと考えてよいのではないだろうか。どういうことか。
連帯についての<写実画モデル>的ジレンマは、要するに「モデルを無限に細かくすると現実と見分けがつかなくなって、モデル化する意味が無くなりました」という身も蓋もないところにある。それなら中途半端に現実を写しとるよりも、現実の複雑性をそのまま受け入れればよいではないか、ということ。精神障害の病名にも似たようなところがあり、「アスペルガー症候群」が「自閉スペクトラム症」に統一された経緯にもその足跡が見られる。スペクトラムをスペクトラムとしてそのまま記述するしかないとなると、診断という行為の意味が変容するのである。
しかし、「べてるの家」の実践はその細分化のいわば極限として、一人に一つ病名が与えられる。そしてそれが(もちろん精神障害の部分的な領域とはいえ)、臨床における具体的な恩恵をもたらすことがある、という事実として報告されているのである。すなわち、名前をつけることは、そのモデルが有するそれぞれの分類の該当者が多いうちは社会的連帯の可能性の拡大という効用をもつのだが、人数が少なくなるにつれてその効用が薄れ、究極的にはまったく無意味になるのではないか、という懸念。それをその極限において破る、つまり、社会的連帯の意味が一切ないような一対一対応としての名付けの効用が示される貴重な事例として、「べてるの家」の当事者研究は解釈できるのではないだろうか。
ロボット工学の分野に<不気味の谷>という以下のモデルがある。
このモデルは、「ロボットの見た目が機械的な物から人間に近づいていくとき、その類似性上昇の途中で一度感情的反応が不快(不気味)に振れる点を通過し、そのあとは親近性を増す」ということを表現している。私が5年以上前に<写実画モデル>を思いついたとき、このグラフがインスピレーションを与えたことを鮮明に覚えている。
「べてるの家」の事例には、我々の社会モデルに多様な名前が溢れることの先には<写実画モデル>のアポリアがあるのではなく、むしろ<不気味の谷>の臨界領域とその先のようなしかたで、社会的安定と多様性の両立という未来が可能となるのではないか、という希望が示唆されているのである。名前と社会の外的関係が崩壊したその先で、名前と人間の内的関係が浮かび上がるのではないだろうか。
※「当事者研究」における「幻聴さん」のような名付けの臨床的意義、および、そのメカニズムについては、斎藤環の近刊(『イルカと否定神学』, 126頁)等でも検討されている。