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もし世界が偶然に過ぎないのだとしたら-神の存在と自然法則-

「神は存在する。なぜならば、この世界は単なる偶然で成立するにはあまりにも出来すぎているからだ」

 という主張は、キリスト教神学の内部だけでなく、我々一般人にとっても自然な感覚で理解できる神についての論証の一つである(キリスト教神学内部の存在論的論証については、たとえばバートランド・ラッセルの『WHY I AM NOT A CHRISTIAN』や上枝美典の『「神」という謎』等に詳しい)。誰しもが子どもの頃に、そういう理由から神の存在をなんとなく考えてみたことがあるのではないだろうか。奇跡的に一命を取り留めた人間が「こんな奇跡は神様が与えてくれたものでしかあり得ない」と考えることと、構造上は同型である。

 多くの子どもは、大人になるにしたがってこのような考えを改めるようになる。なぜならば、この世界を支配しているのは自然科学が探究している自然法則にほかならないのであって、仮にこの世界のすべてが必然であるとしても、それは神の存在などではなく自然法則によるものである、と知るからである。こうして、科学を信じることは合理的であり、神を信じることは非合理的であることが「大人」の常識となっている。

 しかし、この合理性の境界は一体どこからやってくるのだろうか。少なくとも現象との向き合い方において、その合理性には単純で明確な境界などない、ということがここで問題とされる論点の概要である。

 こちらの動画を見てもらいたい。
 何を思っただろうか。ほとんどの人がこの動画を見て最初に思うことは、「すごい」という直感と、その直後に続く次のような感想だろう。

「とにかく何か仕掛けがある」

 なぜこのように結論するのだろうか。それはこの現象が「偶然にしては出来すぎている」からにほかならない。サイコロは一つにつき6面あり、それが999個同時に同じ目になる確率というのは、最も素朴に「6分の1」が999回掛け合わせられる、すなわち「6の999乗分の1」となる。そんな奇跡的な現象がカメラを回している最中に都合よく起こる確率はさらに低いと考えられる。したがって、こんな動画は何かの仕掛けによって確率1、すなわち、必然的に実現させられているものであると考えるほうが合理的である(仕掛けがあるなら偶然ではないのだから、仕掛けの存在ありきでの条件付き確率は1になる)。CGか磁石か合成か、どんな仕掛けかはわからないが、とにかくこの動画を必然たらしめる存在者(動画制作者や仕掛けの考案者等)がこの裏に控えていると考えるのである。この動画を見て

「すごい!こんなことがカメラの前で起きたなんて!」

と感じる人がいたとすれば、「大人」はこの人のことを、非合理的な人、あるいは、夢想的な人だと判断するだろう。奇跡的な現象を目の当たりにしたときに、その奇跡を偶然(低確率の事象の現実化)であると考えるよりも、それが必然(確率1)だったと判断することのほうがよほど合理的であると、普通我々は考えるのである。

 ではここで、この地球(世界と言ってもいいのだが、原初キリスト教が想定する人間の認識範囲の便宜上、ここでは地球を「世界」の範囲としておこう)がこのようなしかた(地球があり、水があり、人間が生存できる程度の重力が働いており、太陽からの電磁波がオゾン層で一定程度和らげられ、宇宙の加速膨張のスピードが人間の生存にとって許容範囲内であり等、無限の条件)で存続していること、この確率はどれほどのものなのだろうか。

 すると当然のことながら、その確率はサイコロが999個ゾロ目になることよりもはるかに小さいことがわかる。ここで人間は、先の動画の例とまったく同様の判断をするのである。

「とにかく何か仕掛けがある」

 すなわち、神学の出発点はむしろ、我々の確率論的な世界把握と合理性に基づいてなされているのであって、決して非合理なものではない。確率的に極めて小さいと考えるほかないような現象が目の前で起こっている場合、人間はその裏にある「必然たらしめる存在者」を想定するし、それこそが合理性の本性であろう。

 しかしここで、科学の合理性は質的にまったく異なると考える人がいるかもしれない。科学は自然法則を大量の実験データから明らかにすることによって、偶然から必然へのジャンプアップ(確率1にする存在者の仮定)なしに着実に必然性に到達するのだ、と。これは概ね正しいが、誤りも含まれている見解である。

 科学が実験を繰り返して自然法則を導入するときに頼る推論原理は「帰納的一般化」と呼ばれる。これは個々のデータからそれらを統一的に説明する一般原理を導き出す推論で、実験から自然法則が導かれることの一つの根拠になっている。また、帰納的一般化によって得られる説明が複数ある場合、どれを一般原理として採用するかは理論選択(Theory choice)の問題となり、伝統的にはIBE(Inference to the Best Explanation)という原則がある((Samir Okasha, 『PHILOSOPHY OF SCIENCE A Very Short Introduction』, 29頁)等に詳しい)。ただし、科学理論は帰納のみによって、仮定なしで構築できるものではない。有限回の実験データから時間・空間的に無限に妥当する自然法則を導くことは論理的に不可能だからである(過去の実験の共通性質が明日も成立するか否かは、過去の実験だけではわからない)。
 ニュートンが有限回の実験から、無限に広がると自ら仮定した絶対空間全体に渡って妥当する原理として「慣性法則」を導入したことや(そもそも「絶対空間」という概念自体実験から得られるはずのない装置である)、ケプラーの第三法則に対して「質量」や「力」を導入した解釈を施し「万有引力の法則」を導出したことを見ても、実験からの帰納的一般化だけで自然法則が打ち立てられることはないという事実は例証される(『科学哲学』, 42頁)。なお、ニュートンは「我は仮説をつくらず」(『プリンキピア』第二版「一般的注解」)と明言していたことも付記しておきたい。

 以上の多少形式的・歴史的な説明は何のためのものだったのか。これは、自然法則の構成法そのものが、まさに「確率的把握から必然化する存在者へ」(低確率の現象の頻発を観測し、それらを確率1で説明するような仮定や理論的存在者の導入へ)という確率的ジャンプアップを要求するものである、という事実を明らかにしている。ボルツマンが気体分子運動論を構成した当初、原子は観察できない(顕微鏡が未発達であるため)理論的存在者であり、原子論は仮説に過ぎなかったという事実も参照されたい(『科学哲学』, 46頁)。気体の巨視的な現象を確率的に把握し、それが確率1で成立する(気体運動そのものは確率的に記述されるのだが、確率的な振る舞いそれ自体が理論の枠内でマクロに把握可能になる)ためのジャンプアップとして、原子論の導入が求められたのである。

 ここで明らかにされた事実を簡単にまとめよう。

(1)我々の確率的直観に基づく合理的判断は、
「確率的に極めて小さいと考えるほかないような現象が目の前で起こっている場合、人間はその裏にある「必然たらしめる存在者」を想定する」
として説明できる
(2)神の存在要請は極めて性急でありながら端的に非合理であるわけではない
(3)科学が自然法則を明らかにするプロセスも、
「現象を確率的に把握し、それが確率1で成立するためのジャンプアップとして仮定や理論的存在者を導入する」
として概ね説明できる(少なくとも、仮定なしの科学理論はおそらく不可能である)

以上3点より、
「科学を信じることは合理的であり、神を信じることは非合理的である」 
という主張は、十分検討に値する説得的な主張ではありながら、まったく自明ではないし、少なくとも端的に境界を設けられるものではない、ということがわかる。

 なお、私はこの結論から「神を信じることは科学を信じることよりも合理的である」や「科学は宗教と大差ない」などというつもりは毛頭ないことは断っておかねばならない。あくまで、目の前に生じた現象の把握とその説明という判断プロセスにおいて、「神の導入という確率的ジャンプアップ」だけを理由に合理性の境界線を引くことはできない、という事実を指摘するにとどまっている(しかしこの事実でさえ、多くの「大人」に見落とされているため、指摘する意義がある)。

※なお、近年再注目されている「人間原理」を想定することも、条件付き確率によって奇跡を必然化するプロセスの代表例である。


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