挙証責任と〈方法論的デフレ主義〉
空き時間に、新しく届いた『真理の本性』を読み進めている。大変面白いし、なにより、参照されている論文が真理論の著作として過去例を見ないほど新しい。日本語で書かれた多くの真理論の研究書は、歴史的背景を一次文献まで遡って概観して、そこから問題を抽出する(『論理学 モデル理論と歴史的背景』『現代真理論の系譜』等が私の知る事例)。本書は最新の博士論文の書籍化ということもあって、いい意味で遡りすぎずに焦点を絞って論じられていて、そのあたりも参考になる。
ページをめくっていくと、「挙証責任」という概念が登場する箇所が見つかった。
本書では、この概念について既知のものとして話が進んでいるのだが、学術的探究一般においても重要なものであると思われたので、少し考察を展開してみたい。
挙証責任(立証責任)という概念は、一般的には裁判等でよく用いられるもので、要するに「自己の主張を裏付ける論拠を提出する責任」のことである。学問する上でもほとんど同様の意味で使用され、「どのような場合に挙証責任が帰されるか」ということが学問共同体(アカデミア)においても重要になってくる。
ここで著者が述べていることは、専門用語を除いて簡単に言えば次のようなことである。
(ⅰ) <α+β>の存在を主張するもの(Aと呼ぶ)は、<β>の存在を主張するもの(Bと呼ぶ)に対して、<α>についての正しさを示す挙証責任を負う
(ⅱ) <α+β>の存在を主張するものAは、<β>の存在を主張するものBの論証を引き継いだ上で、さらなるテーゼを提出している。したがって、<β>の存在を主張するものBに挙証責任は生じない
(ⅰ)は自明である。AはBの議論に付け加える形で、Bが論じていない主張を立てているのだから、付け加えられた分を論証できるのはAだけである。これは次のように一般化できる。
挙証責任原則Ⅰ 発話者Sが議論に新たな要素を付加するならば、その正当性に対する挙証責任はSに帰される
これは自明視されていながら、しばしば見落とされる原則である。次のような会話を想定せよ。
N「宇宙人はいるんだ!」
M「なぜそんなことが言えるの?」
N「いやいや。そう言うならそもそもいないという根拠を示してごらんよ」
こういうやりとりは宇宙人に限らず、神や霊的存在などについて頻繁に見られるもので、原則Ⅰがしばしば見落とされていることの実例である。これに対する批判として「悪魔の証明」論法(普通「論法」という語は付かないが、ここでは便宜上このように呼ぶ)と呼ばれる反論があるが、実は「悪魔の証明」論法は原則Ⅰを擁護するものとしては不十分である。以下にその理由を簡単に見ておこう。
「悪魔の証明」論法の論理構造
① 世界には無限個の個物(x)が存在する(無限公理)
② 「Γであるようなxは存在しない」(¬∃xΓx)という命題は、
③ 「すべてのxについて「xはΓでない」」(∀x¬Γx)と論理的に同値である
④ 全称命題は無限連言と論理的に同値だから、③の命題は、xに代入可能なすべての個物(x={a, b, c…})について「「aはΓでない」かつ「bはΓでない」かつ「cはΓでない」かつ…」と論理的に同値である
⑤ 連言の真偽は、そこに含まれる連言肢のすべてが真になるとき、かつそのときに限り真になり、④で翻訳された命題の連言肢は①より無限個である
⑥ ①および④(および補題としての⑤)より、ある性質の所有者が存在しないことを示す命題の証明は無限のステップを含み、有限回で決定不可能である
この論法はたしかに妥当であり、有限回のステップでは証明不可能な命題を、有限時間内で判断を行う我々人間の議論に持ち込むことは不当であるという指摘もまた妥当である。したがって、一見するとこれだけで原則Ⅰの擁護に成功しているように見える。しかし、そうではない。
問題となるのは公理として設定された①である。まず第一に、この世界に無限個の個物が存在するとしても、命題の談話領域(Domein of discourse)は有限個の個物に適用されている場合がある。宇宙人についての会話ならば、「現在発見されている生命体xについて」という設定があるかもしれない(たとえば、何らかの自然科学的成果によって、イヌ科の動物が宇宙人であることが判明するかもしれない(地球上の「人」概念とはかけ離れた容姿であるとはいえ))。この場合、有限回のステップでは決定不可能だから、というだけで発話を退けようとする「悪魔の証明」論法は原理的には機能しない。また第二に、そもそも無限公理を設定することが適切かどうかも自明ではない(実際、初期の素朴集合論からは不当であるとして早々に排除された)。たしかに、世界は無限の分節化が可能である(物差しの「0」から「1」の間にも、無限個の値が存在すると考えることさえできる)。しかしそのことが、xに代入可能な無限の「個物」の存在を保証するわけではない。ただし、この問題は「そもそも個物というカテゴリーは適切か」という重要な問題に波及するため、ここではこれ以上扱えない。
以上で見たように、一見すると自明で、誰にでも共有されているかのように思える原則Ⅰも、実は多くの議論で見落とされており、かつ、そのことを別のしかたで主張するかのように思われた「悪魔の証明」論法にも、いくつかの問題点があることがわかる。このことから、そもそも原則Ⅰを認めないという道も考えられるだろうが、私としては、「だからこそ建設的な学術的探究では原則Ⅰを明示的に設定する必要がある」と主張したい。
(ⅱ)については少し込み入っているが、おそらく次のようなしかたで一般化できる。
挙証責任原則Ⅱ 複数名が参加する議論(ここではSと Lの少なくとも2名がいるとする)では、発話者Sが発話者Lの主張の上にさらなる主張を立てる場合、共有された主張(=前提)について、発話者Lには挙証責任が帰されない
なぜこのようなことが言えるのだろうか。それは、学術的探究における議論そのものが、「すでに共有された知識の上に新たな真理を発見すること」を目的とするからである(これは私自身の見解である)。挙証責任は通常、対立する二人以上の発話者の間で議論を進める際に生じるものである。よって、「すでに共有された知識」については一旦仮定して、新たな真理の問題に集中することが許される。いわばそこでは、複数人の発話者は(挙証責任についての)「運命共同体」となっているのである。ここで、「それでは前提に誤りがあったらどうするのか」という指摘が当然あり得る。しかし、これがまさに学問共同体(アカデミア)の存在意義であり、その前提について対立見解を持つ、すなわち、その前提だと思われているものこそが「新たな真理」の議題なのだとみなす発話者との間で、別の議論が展開されることになるのである。
本書では、<方法論的デフレ主義>という呼称が紹介されていて、これが面白い。要するに、(だいぶ上の方で呼び名を決めたところの)発話者Bは、Aの論証が正当に提出されるまでは、いわば「方法論的に」(つまり、あくまで真理探究の適切な方法として)Bの立場でいればよい、というのである。
学術的探究に限らず、「穏健な議論と過激な議論」「弱い主張と強い主張」など、世界には同型の構造を持つ領域がさまざまあるが、ここで紹介された<方法論的デフレ>という発想は、それらに共通して妥当する有用な立場であるかもしれない(そしておそらくこれは、古典的には「オッカムの剃刀」と呼ばれた方法論的ドグマについての、プラグマティズム的定式化の一種である)。