ちょっくら
悲しいときはひたすらに悲しくて、あんまり言葉が出てこない。
煙草が吸える喫茶店にいる。さっき恋人にその旨をふざけた言い方で伝えたので、予測変換には「喫茶店にいるます」と出てくる。そんなことはよくて。
頭上には埃を被ったライトがある。広くて丸いテーブルを、ヘッドホンをつけ首を小さく振りながらリズムを取っているイカした髪型ボーイと、大きなスマホに大きなキーホルダーをつけた大きめ帽子ガールと囲むように座っている。なんだか手汗が止まらない。店内の温度調節は上々だ。目の前にはコーヒー豆をローストするための古い機械があるけれど、それについて、コーヒー豆をローストするための古い機械、以外のことはなにもわからない。知れば知るで楽しいけど別に知らなくていいことの多さを嘆くのはそろそろやめにするべきだろうか。
ほんとうに不思議なことは、ひどく悲しい気分で心臓が押し潰されつつあるとき、トイレの鏡に映る自分がまるで健康そうな顔をしていることだ。今だってきっと、真っ白の温かそうなセーターを着ている、都会の強風でぐちゃぐちゃになった髪をなんとか撫でつけた涙袋白ラメガールがなんでもない顔でスマホをいじっているのだ。
挫けてはいけない。挫けることが最もよくないのだ。イヤホンから「ごめんね、ごめんね、それしか言えないよ」と聞こえる。
私が悲しいのは、喫茶店でちょっくら西加奈子の『くもをさがす』でも読もうかしらと思ったからだろうか?少し違うと思うな。
人生とはもちろんいろいろな側面を持っていて、そのうちのひとつは構築ゲームだ。判断を構築していくのか、判断で構築していくのかはわからないけれど。24年めともなるとおおむね構築されていて、いやもう、10年ちょっとで善悪や美意識の基礎はできてしまうのかもしれない。私の中には素晴らしい人間の像がある。はつらつで、悲しみを知っていて、深刻ではないけれど真剣で、自然のおもしろさを知っていて、上品と愛嬌の兼ね備えた服を身にまった、美しい人だ。けれど、たまに、そういうことのすべてがどうでもよくなる。善くあらんということも、人を素敵に褒めることも、なんだかすべてどうでもいい。自分の脳のちっぽけを知っているから、それが獲得した価値観のくだらなさに辟易するのだ。たぶん。目と脳に映るすべてが、使い古された比喩のように色褪せて、垢まみれで、きしきししている。鮮烈、中庸、外界、内省、順番、打破、DIORのリップも、重たいコートをよいしょと持ち上げることも、すべて、喉に込み上げるほど重苦しくて罪深くて退屈で悲しい。
悲しいときはひたすらに悲しくて、たまに文章を書く。それはセラピーでも救済でもなく、じゃあなんだと問われたら、果たしてなんだろうね。