「すべてはアガサの仕業」/アガサ・オールアロング解説
「どんどん進め、魔女の道を。続け友よ、最果ての栄光の地へと」
はじめに
いやー、久しぶりにMCUのドラマシリーズで感動しました。
アガサ・ハークネス、原作コミックでは最高の魔女と名高い存在、しかしMCUが始まって以降は、ややパッとしない存在になりつつあったところ、ワンダヴィジョンで堂々と登場。キャスリン・ハーンの名演もあり、一気に知名度が爆上がり。
更には原作コミックでも若返ったり、魔法学園モノの主人公としてワンダと2大主人公になったりと、最近八面六臂の活躍を始めたアガサ。
とはいえ、彼女を主人公とするドラマシリーズへ、ファンとしては不安が無いわけではなかった。
そもそも彼女はコミックでも、ファンタスティックフォーの乳母や、ワンダのよき師匠といった、言うなれば「印象的な脇役」であって、主人公を張れるキャラかと言われれば、そうでもない
そして、そんなアガサのお供をするのが、ジェニファー・ケール、リリア・カルデル、アリス・ウー・ガリバーという、なんか最近出てきたっけ、ああ、そういえばスカーレット・ウィッチの単独誌にちょこっと出てたな、くらいの、現代のコミックファンからしても印象薄い魔女たち。
また近年MCU疲れだのなんだの揶揄される日々。コミックファン的には起死回生の作品とも想定していなかった。
が、最終回を迎えた今、その不安は一気に払しょくされ、MCUの中でも、屈指のドラマシリーズだという確信へと変わった。
度重なる伏線、優秀なストーリーテリング、魅力的なキャラクターたち。回が進むたびに魅力が増していく。まさにドラマシリーズに相応しい構成と脚本だった。
しかし、伏線の多さと、魔女や英語圏の文化から、少しわかりづらい部分も多かった。特に吹替や字幕では、わかりやすさを重視した結果、真意が結構削られているところもあり、やや、「結局あれってどういう意味だったの?」という部分が多かったんじゃないだろうか。
というわけで、今回はいつものような感想ではなく、わかりづらかったであろう部分の解説をしたいと思う。せっかくの名作なのに、言語の違いで楽しめないのはかなり勿体ない(ちなみに、コミックファンの持つ原作知識は、今回のドラマシリーズでは露とも役に立たなかったので、そこは安心してほしい)
当たり前だが、ネタバレを含む。ぜひ、全話鑑賞してから、このnoteを読んでほしい。
7話の解説
特にわかりづらかったであろう内容が7話だ。この話は、見事な伏線回収と、キャラクターを中心としたストーリーテリングの流麗さから、ファンの間でも「傑作」と名高い話だ。
しかし、ただでさえ、英語圏の人間でも複雑な部分が多いうえに、「日本語字幕」にしてしまい、微妙にニュアンスが変わってしまった部分も多い。
まず初めに、前提として「リリア・カルデル」の力について。
7話の11分ごろ、リリアは「子どものころ人生の時間はバラバラだった」と説明する。
この翻訳自体は間違っていないのだが、微妙にニュアンスが違う。
原語では、ここは"out of sequences"、つまり「人生の時間の順序がバラバラだった」と言っている。
イメージとしては1から100に向かって人生を歩んでいくのだとしたら、普通は数が繰り上がっていくところを、乱数のように進んでいくのがリリアだということだ。
また、見事な伏線回収シーンが9分ごろの"Alice, Don't try save Agatha"なのだが、これも、翻訳により、絶妙にニュアンスが消えている。いや、もうこれは仕方ない。英語と日本語の根本的な文法設計上の違いのせいだ。翻訳者の
せいではない。
このシーンの魅力は、「Alice, don't」という台詞と、「try save Agatha」という、二つのリリアの台詞が、実は一つに繋がっていたという部分だ。
しかし、
吹替では「アリス、だめよ / アガサを助けては」
字幕では「アリス、やめて / アガサを助け……」
頑張った方だと思う。
だが英語の「あ、これ一つの文だったんだ!」という驚きは全くなくなってしまう。
ちなみに、最後、セイラム・セブンとリリアの対決だが、これに関しては完全に誤訳
「災害、破壊、突然の激変、逆さの"塔"のように」
と字幕では言いながら、リリアは塔のタロットカードを反転させる。
これは言語では"tower of upright"
つまり「正位置の"塔"」が正解である。
劇中でも言っている通り、「逆位置の"塔"」は「災害、破壊からの、奇跡的な転換」という意味であるため、「逆さの塔」では、この展開の意味がわからない。
吹替では「塔のカードが意味するように」と言っており、こちらは全然問題ないのだが、なぜ字幕だけ、微妙な訳になってしまったんだ?
ティーン(ビリー/ウィリアム)について
ティーン、もといウィリアム・カプラン、もといビリー・マキシモフ、もといウィッカンについて。
これは原作知識と、事実上の前作である「ワンダヴィジョン」の内容を覚えていないと、少し困惑する部分だと思う。
まず、ビリーの能力について。
彼の力は、ワンダ同様現実改変の能力。ワンダと大きな違いはないが、ビリーは特に、「自分が望んだこと」を現実で実現させることを得意とする。
ドラマ8話で、魔女の道がそもそもビリーが作り出したものであることがわかるが、これは「魔女の道の伝承」と、「自分がこれまで経験してきたモノ」を複雑に絡み合わせたことで、生み出した「幻想(実際には現実を作り変えているので、現実ではあるのだが)」に過ぎなかった。
そして、ビリー(あと兄弟のトミー)自身も「ワンダの現実改変能力により生まれた存在」なので、「実在する人間」である。
ワンダヴィジョンの結末で、二人はワンダが現実改変を「畳んだ」ことに巻き込まれ、消えたものと思われていたが、実際は、ワンダから力を引き継いでいたビリーが「自分の新しい体」を見つけて、新たな人生をやり直していた。
物語中でも、ビリーが望むと、それが叶うシーンが非常に多く、特に7話では「リリアがいたらいいのに」とタロット占いを前にして呟くと、本当にリリアが現れる。
改めて見返すと、ビリーが「〇〇は無いか」と言ったら、大抵その通りに見つかる(3話の低温調理器とか)のがよくわかる。
ただそれは全てビリーの作った幻覚ではなく、本当に現実。
なので、5話でアガサにとりついたアガサの母や、ニコラスの声、4話で現れたアリス一族にとりつく悪魔などは全て、「現実」だったと言える。それが何もない所から生み出したのか、それとも「既に存在するもの」を連れてきたかは、はっきりとはしないが
リオ=デスの目的は?
もう一つ、今作でわかりづらかったのが、リオの目的だ。これは、あまり今作でもはっきりと説明されているわけではない。ただ、これについては、ドラマ本編の内容だけで、十分な判断材料がある。
まず8話冒頭。リオは「アガサの周りには死体が積みあがっている」と言った後「あんたの約束通りね」と続ける。この約束の内容は、ドラマでは語られない。しかしこれはおそらく「アガサは、何かと引き換えに、人を殺し続ける(デスのもとへ送り届ける)」という旨だったことがわかる。
なにと引き換えにしていたのかはわからない、が、可能性としては1つある。
ズバリ「寿命」だろう。何らかの経緯で、アガサとデスは出会い、愛し合う。そんな中で、アガサはデスに、長く生きていたいことを言い、それを破る方法をデスはアガサに授けたのではないだろうか。その方法が「他人の命」をデスの元に送り込むということだったのだろう。
しかしここで気になるのが、「どうしてデスは、アガサの息子を連れて行ったのか」という点と、「どうして最初、デスはアガサの命を狙っているのか」という点だ。
この2つの疑問への答えとして可能性が高いのは「アガサが契約を破ったから」だろう。
おそらく、アガサとデスの約束は、「絶対に関わりを持った周囲の人間を殺すこと」なんじゃなかろうか。
そのため生まれた子どもであるニコラスは、約束のために「デスが連れていく」必要があった。一応猶予こそ貰えたのだが、ある日、デスはニコラスを連れていく。
ここにも示唆が1つあり、ニコラスがデスに連れていかれたのは、唯一「ニコラスがアガサの魔女殺しを止めた」タイミングだった。アガサが魔女殺しに躍起だったのは、「自分の息子分も稼ぐため」だったのかもしれない
アガサは何故魔女の道を作った?
「魔女の道」は最初から存在せず、魔女を呼び出すためのアガサの口実だったことが、最終話で明かされた。
だが、なぜ息子を失ったアガサは、更に魔女殺しを加速させたのだろうか?おそらく、これは「息子を殺されたデスへの復讐」が目的だったのだろう。
これは魔女として力をつけて、デスに力で復讐するという意味ではない。どちらかといえば「死を司る神にとって『死なない人間』というのは、耐えがたい存在だから」ということだろう。
「ダークホールド」を手に入れて、アガサは闇の魔法でデスから身を隠していたことが、1話で語られる。
原作ではダークホールドの製作者のクトゥンは、ヴィシャンティの書の製作者のヴィシャンティなどと同じエルダーゴッズ。ソーやメフィストといった、神や悪魔の更なる上位の存在である。だがデスは、更に高位の宇宙的存在。これほどの魔術書でさえ「デスから身を隠すためにしか使えない」あたりからも、アガサがデスに力で復讐を試みようとしていたというのは考え難いことだ。
だが、アガサは、ワンダに魔法をかけられ、ダークホールドと力を奪われ、妄想の世界に囚われていた。結果的に、アガサは身を隠すことができなくなり、更に他人の命を奪うことを「しばらく(およそ3年)中止」することになる。これによりデスはアガサの元を訪れることができ、そしてとうとう、彼女の命を奪うことができる状況になった。
記憶がないなら、契約違反を追求できないと思い、デスは、アガサの記憶復活を手伝ったのだろう。そして記憶が戻ったアガサを、デスは再び殺しに来た。
だが不慮の事故でデスに再び見つかったアガサは、「今まで通り魔女をデスの元に送り届ける」ことで、再び死を先延ばしにしようとしたのだろう。
そして最後、更に、ビリーの命と引き換えにしようと試みた。だがここでビリーがアガサに「こうやって息子を差し出したのか」と問う。
第3話で、ジェンは、「アガサは禁断の書と息子を交換した」という「アガサの噂」を語る。これは実際間違いだった。そして「アガサ自身は息子をなにかと交換するつもりもなかった」。だが図らずも自分の過ちのせいで、息子を死に追いやることになったことをずっと悔いていた。ビリーとニコラスが似ていたこともあり、アガサは結局ビリーを殺すことができず、自ら契約の満了=死を選ぶことにした。
おわりに
結局、アガサ・オールアロング自体は、MCUの世界に大きな進展を与えることはなかったし、結果的に見れば「新キャラは殺しまくった」。今後の展開に関係がありそうなのはビリーによるトミー探しくらいなもので、しかもこれも、結果までは描かれていない(場合によっては、このままフェードアウトしてもおかしくないくらいである)
しかし、映画やドラマは、別の作品のための伏線ではない。アガサ・オールアロングが自分で始めた物語を、きっちり作品内で終わらせた点を私は称賛したい。
そもそも、アメコミ原作も基本的には、「大体コミックは、そのコミック当該誌で完結するもの」である。時折タイイン(所謂クロスオーバー)はあっても、アイアンマンは基本的にアイアンマンの話で完結しているし、実際それぞれの連載は確固たるテーマがあり、それをきちんと「一区切り」させている。
MCUはコミックとは比べ物にならないほどの時間と人手、そして金を費やしているのはわかるが、今後も、こうしたアガサ・オールアロングのような挑戦的作品が作られていくのを、コミックファンとしては望むばかりだ。
なにもヒーローたちがドンパチ戦って、集まるだけが、アメコミではない。
アガサ・オールアロングは、そういう意味では、「アメコミらしくない実写作品」でありながら、「何よりアメコミらしい実写作品」でもあった。
なので
「魔法学校モノで、笑アリ恋愛アリ青春アリのストーリー、スコッティ・ヤングの可愛らしいアートで彩られた名作、『ストレンジアカデミー』も実写化してくれ!アニメーションでもいいから!マジで!頼む!!ケヴィン・ファイギ!!アガサ・オールアロングで味を占めてくれ!ていうか俺はもっとデジーちゃんが活躍するとこが見てえんだよ!!」
おわり