やきものの町
(2011年のブログ記事より)
他の街ではどうなのか知らないけれど、ぼくが育った街では日常使いの陶器を「せともの」と称していた。
愛知県東部にある猿投山一帯は豊富な陶土や窯の燃料になる松の木があり、室町時代から日用品の陶器の生産を始めていたと言われている。
千利休の弟子である古田織部が編み出した「織部」や乳白色が印象的な「志野」などの銘品を生み出し、現在に至るまで綿々と続く焼物の一大産地である。
ぼくが住んでいた場所から車でも30分ほど。
名古屋から見て東北に位置する瀬戸市が、その中心地である。
最盛期であった昭和40年代には高度成長にも支えられ、タイルや碍子などの工業製品やノベルティなどに使われる陶器の製造が盛んに行われていた。
現在、産業としての窯業は衰退の感を否めないが若手作家による町おこしのイベントが行われ、年に一度開催される「せともの祭り」には、数十万人が訪れる賑わいも見せている。
瀬戸を撮った写真家といえば東松照明氏が挙げられる。
氏は名古屋市東区の生まれで、大学を卒業するまでを名古屋で過していた。
大学卒業後名古屋を離れるが、再び名古屋に戻り撮影したものが「やきものの町 瀬戸」という写真集になっている。
昭和20年代から30年代にかけての活気溢れる瀬戸の街や職人たちの姿が活き活きと写し取られている写真で、ぼくは愛知万博に併せて2006年に開催された愛知曼荼羅という氏の回顧展で初めて見た。
昭和30年代の名古屋は他の例に漏れず復興が著しく進み、かなり都市化が進められていたが、瀬戸は未だ戦前の風景が色濃く残る街並である。
燃料の煤で真っ黒な煙を吐き出す煙突が街のあちこちにあり、職人たちの顔や手は真っ黒に煤け、子どもたちは青っ洟を垂らしている。
しかし、人々は活き活きとした表情を浮かべ、大きな口で飯を喰らい、顔をしわくちゃにして笑っている。
裸電球の下に家族が集い、父親は晩酌をし、母親は繕い物をし、子どもは絵本を広げ、祖父・祖母はそれらを眺めている。テレビなどは未だなく、日本の家庭に団欒があった時代である。
東松氏は、やがて現在のような時代が来ることを予見していたかのように、その時代が懐かしがられ、貴重な資料となることを分かっていたかのように、克明に丁寧に撮影している。
小賢しい写真論など入り込む余地などないほど濃密で、氏の若さを表すように好い意味で暴力的な写真が数多く見られた。
それは瀬戸の街に生きていた人のパワーがそうさせたのだ、と思わざるを得ないような、圧倒的な量感を以て見ているものに訴求する写真であった。
万博以降、瀬戸の街は激変した。
観光都市化が進められ訪れやすくはなったが、どこかよそいき顔の街になった感がある。
煙突は殆ど見られなくなり、窯も観光用のものばかり。
まあ今どき薪を焚べて日常的に窯を使おうものなら、周辺から苦情の嵐となるのだろうが。
しかし今残しておかないと、あと数年もすれば見られなくなってしまうのかも知れない。
ぼくは東松氏の残した瀬戸の面影を探して、古いカメラにモノクロフイルムを詰めて歩いた。