#05ヒューマングループ創業者 佐藤耕一 ~教育、人材、介護...誕生秘話 創業から上場前まで~
ヒューマングループ創業者・佐藤耕一。
後に多くの社員を率いることになる男は、何を思い、何を為してきたのか。その半生を振り返る。
ホテルマンの養成から始まった教育事業の講座数は、800を超えるまでに成長した。発想の原点は、縦軸に年齢、横軸に講座を据えたチャートだ。人は一生学ぶ、という考えから空白の部分に入る講座を新規開設していった。
1987年にスタートさせた日本語学校もこのチャートからヒントを得たものだ。今でこそ政府主導の海外人材受け入れ拡大策によって注目を浴びているが、当時は運営する学校、企業は皆無だった。近い将来、日本は少子高齢化によって外国人に頼らざるを得ない時代が来るだろう、と確信していた。そこで不可欠なのが海外人材に対する日本語の教育である。自信半分、不安半分という感じだったが、やってみないことにはわからない。開始からしばらくは順調に生徒数を伸ばしていったのだが、入管審査の厳格化によって生徒数が激減するなど不安定な状態が続き、撤退寸前まで追い込まれたこともあった。それでも我慢し続けたのは「この分野は必ず大きく成長する」「日本語教育の時代が来る」と、失敗を失敗と認めず、絶対に成功すると信じ続けたからだ。
講座を増やすために使用したこのチャートは、新市場に進出する際にも応用できた。そこで生まれたのが人材であり、介護だ。創業から3年後の1988年には人材事業を開始。きっかけは「教えて終わり、で本当に世の為人の為になっているのか?」という疑問だった。学んだ後、就職の面倒まで見てこそ教育事業者である、という信念のもと、学んでから働くまでを一気通貫で行っていたのだが、無許可で職業紹介をしていたらハローワークから指導を受けた。労働者派遣法が施行されたこともあり、それならば、と新規事業として人材事業をスタートさせることになった。
当初、人材派遣事業ではなかなか大手企業に入り込むことができず取引先は聞き慣れない会社ばかり。これではいつまで経ってもスケールしない。どうにかして大手企業に入り込む術はないものか。捻り出した答えが、大手企業を定年退職した方に出身企業の開拓をしてもらうマスターズ・マネジャー(MM)制度だ。日立グループに勤務していた先輩を口説き入社していただくと、大手企業との取引が徐々に広がっていった。さらにMM制度を組織化し、人員拡大していくことによって大手企業との取引社数が増え、急成長していった。
人材事業を開始し11年が経過した1999年には介護事業を立ち上げた。介護事業の前身は予備校だ。実績作りのため、灘高校出身の浪人生を特待生として無償で受け入れていた。瞬く間に合格実績は上がっていったのだが、このまま特待生を集め続けていたら経営が行き詰る。少子化の波もすぐそこまで押し寄せてきている中で、思い切って舵を切らなければならないタイミングだった。介護保険法が施行されることもあり、教育事業ではケアマネジャー養成講座も開設され伸長し始めていた。予備校を閉鎖することを決めて介護事業を立ち上げることにした。マーケットが拓いたばかりなので、大手企業も中小企業も関係なく横並び。スピード重視で介護施設を全国に広げていった。
少子高齢化による国内市場の縮小を見据え、もう一つやっておかなければいけないことがあった。海外での事業展開だ。1997年、経済発展が目覚ましい中国に狙いを定めて北京に渡り、学生時代に1年ほど下宿していた王さんと40年ぶりに再会した。北京でのビジネス展開について相談すると「縁もゆかりもない土地で商売したら痛い目にあうことになるから、僕の故郷である天津で一緒にやらないか」と誘われ、天津での事業展開を決めた。当時としては最先端だった、マルチメディアと日本語教育を併せた「修曼天津同文渉外職業学校」を開講。時流に乗って生徒数は2000人ほどになった。しかし、中国当局に目をつけられたのか、運動場の所有や校舎の修繕、定期的な移転などを要求されるようになり資金繰りがひっ迫。撤退を余儀なくされた。
ー続ー