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巡り巡るは縁も道具も、円となりて。

金曜日分の業務日報を書きおわり、そこでタイトルのようなことを書きました。
土曜日は、隣町でご挨拶できていなかった皆皆様のお店にお邪魔し、手土産に京都のお茶を渡すと、なにか3倍くらいになって餞別をいただき、おかげさまで向こう数ヶ月の珈琲豆には困りませんし、栞にできそうな素敵な蔵書票は手に入りましたし、古道具屋さんではどこの家を、どこのお店を、どこの食器を渡り歩いてきたのかわからない木筒と5合升を手に入れました。「金生特製」と書いてあるようですが、その真偽は定かではありません。
子供の頃に名前を書いたお札が、大人になってコンビニで帰ってきた、なんて嘘松やろ、と思うような話もありますが。あのモノもそのモノも、きっとどこかで巡っています。時には誰かの家で。時には塵となって大気を漂いながら。

5年前、長野の真ん中にあるこの街に1人旅で訪れる決断をしていなかったら、今のこの関係性や、暮らしや、感性や、これらはきっとない。コロナは、たくさんの我慢と悲しみとやるせなさを生みました。それを肯定することはできません。でも、コロナが強制的に変えた社会システムの流れに乗って、僕は 5年前から足繁く通ったこの土地に移り住む決断が出来ました。コロナが良いことだった、と言いたいのではありません。どんなことも、巡り巡って、我が家の、人工物感漂う安机の上で異彩を放ちながら、だんだん馴染んでいくこの古道具たちと同じように、よしなしごとも、清濁も、全部ないまぜにしながら、巡って、またどこか、あっちゃこっちゃに在るんでしょう。

そんなふうにして在るいまの自分です。家族です。社会です。世界です。
自分じゃ何かを大きく変えることはできなくても、こうして、小さなたった小さな古道具の巡りと、その街に築かれた関係性を想うだけで、変えられずとも、変わっていく渦の中に自分がいて、どうなっても変わらず在るものを手に取ってしみじみと考え入ることができます。

そう、縁も道具も中学時代に喧嘩別れしたアイツも3児の母になった初めての恋人も海外旅行に持って行って現地で旅びとと交換し合って手放したあのお気に入りの村上春樹のエッセイ集も、巡り巡って、あっちで、こっちで、元気でやっている。いてほしい。

究極、僕の願いはそれしかなくて、ロマンチストだと言われても、ロマンが結構、
あの日名前を書いたお札が手元に戻ってくることを、その瞬間まで忘れながら、
でも無意識の奥の方で、あのお札が大事に扱われ、大事な場面で支払いに使われていることを、そしていつか戻ってくることを願いながら、僕は ATMで4桁の数字を押すんだぜ。

(薬が効いてきてこれ以上ポエミーになると明日の僕が爆発するので以上。縁は円で、円は全で、全は空で、空こそ我だ。というような仏教の教えがありそうですね)

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オザケン
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