2022/11/02
朝、目覚めて。
為替のポジションを確認する。
昨日は随分と稼いだので、今日はまだポジションが荒れたままだ。
ずらっと並ぶマイナスの文字列。
続いて、株式を確認する。
円安と米国株の値上がりで、こっちは数字がいい。
中国資本の影響で痛んだマレーシア株を対円取引で処分しながら、ドル放出の為に少し株式と債権を買った。
仕事の資料を印刷して、猫に餌をやる。
今日も一日が始まる。
最近は筑波市の探検を進めよう、と思っている。
僕の住まいは柏の葉キャンパスと筑波学園都市に近い。
この二つの都市構想を眺めながら、色々と想いを巡らせるのが、最近のお気に入りの時間の過ごし方だ。
都内であれば、上野、恵比寿、原宿なんかが好きな街。
埼玉では大宮や越谷をよく探索する。
千葉県では最近、大鷹の森が気に入っている。
筑波市、と書いてしまうが、今は平仮名表記で「つくば市」と表記するらしい。
大学の研究機関やJAXAなどがありながら、お洒落な飲食店が新旧混在し、国際色もありながら、立派な神社などもある魅力的な街だ。
先日は実験植物園と宇宙センターを訪ねた。
写真撮影と、投資対象調査を行い、モンゴルのアンテナショップで靴下を買った。
今度は美術館や博物館巡りがしたい。
金銭的に余裕がある訳ではないし、外食は味が濃かったり、油分が多いので、出来るだけ避けていきたいが、茨城県まで行ったら、何かに舌鼓を打ちたい。
地域の食材を食べる事も好きだが、そこで提供されるお店も好きだ。
この日はcutlet cafe aoiotoにお邪魔した。
コンフィやカツ、サラダボウルなどを提供するお店で、フレンチとカフェスタイルのお洒落なお店。
天気が良かったので、テラス席で。
肉質はコンフィを揚げているのか、と思う程に柔らかかったが、油臭さはなく、美味しい。
ソフトフランスパンは香ばしく焼かれ、野菜のフレッシュさも合わさって、食べやすい。
珈琲を頂きながら、時間を過ごす。
どうやら、今年から秋花粉症になったらしい僕は茨城県に入った直後に、クシャミが止まらなくなったが、昼食を取る頃には随分と落ち着いていた。
個人的にはあまり、アレルギー薬を飲みたくない。
どうしても辛ければ、医者に行って処方してもらうが、市販薬漬けの生活は出来るだけ避けたい。
それでも忙しい時は市販薬に頼らざるを得ないが、今はそんな状況でもない。
体が自浄作用で排出したいモノは排出させてやる。
医者にも薬にも頼らずに自身と向き合っていく事も大事な事だと想う。
そんな事を考えながらの珈琲タイム。
エスプレッソとは違う味わいのドリップ。
たまに飲むと美味しいし、珈琲というよりは時間を楽しむ為の飲み物として、ドリップも自分でも入れたいな、などと想う。
濃厚なテリーヌ。
小さくフォークで削って、口に運ぶと味わいと香りが広がる。
珈琲を挟みながら、小さく削って口に運ぶ。
何度も何度も口に運ぶ。
テリーヌは凝縮された物体で、それを味に解きほぐす時、同時に時間も広がっていく。
2022/11/02
朝の移動が完了し、只今、神宮へ。
新国立競技場の近くで今日のミッションに備える。
カーオーディオのボリュームを絞り、静かな時間を味わう。
今日も一日が始まる。
本当は1日1日が特別であるはずだった。
今はそう感じない。
否、感じている側面と、そうでない側面がある。
僕達は安全になり平和になって、脳みその奥の方の機能が不要の長物になり、それでも、そこが放り出す感情に支配される生き物になってしまった。
僕達は外部環境に脅かされなくなると、どうやら自らの内側から自らを脅かすらしい。
だからこそ、僕は何かに邁進していく生き方を望む。
望むが、世の中はより安全の確保へ進んでいく。
その安全は安全を強く求める者の為に機能して、そうでないものを置き去りにする。
そう考えれば、世の中はやはりまた危険だ。
そして、それに対応する事がある種の生の実感を創り出す。
ただ、これは放射能と同じ、見えない恐怖だ。
見えない恐怖と対峙するには知性がいる。
そして、その恐怖が見えるモノと見えざるモノの間で、軋轢を産む。
これは社会構造の困難性であり、僕達は社会の中の存在だ。
だからこそ、ただ邁進して生を実感する事も許されはしない。
ただ、不安の中に佇んで、自らの肉が腐っていくような恐怖の中で蹲るように暮らしている部分もある。
それでも、状況を少しずつ溶かしていくような、何か別の世界に弾き出されそうな、そんな感覚もある。
それが僕の最近の生活だ。
ケトルに入ったアメリカーノを飲みながら、偽物の煙草を蒸す。
これからの暮らし
暮らしは崩れ、また蘇る。
山火事の側面と、その焼け跡から芽吹く新芽が混在する。
そうであれば、もっともっと燃えてしまって、心がおかしくなる一歩手前まで激しく燃え上がって仕舞えばいいとも想う。
それが僕にとって、ある種の生の実感に変わるやもしれない。
または仕組まれた冒険家として生きる事で生を実感してもいい。
それは被害者のいない平和な戦いで、僕にとっては好ましい。
今年の秋はなんだか空気の気持ちよさを繰り返し感じる。
そして、寒い冬が来て、また寂しくなるのだろうか。
弱りゆく都会の朝は今日も平和だ。
アメリカの大都会は今日の仕事を終えただろうか。
経済的活動は僕達の距離をグッと縮めた。
新しい時代は僕達、皆に居場所をくれない。
それでも居心地の良いケージの中で消費社会のパイとして飼ってはくれるだろう。
この世界は誰かにとっての厳しいユートピアで、同時に誰かにとっての甘いディストピアになっていく。
その両端に甘いユートピアと厳しいディストピアが付属する。
今はまだ、僕達は心の中に、その4つ全ての内包しながら暮らしていく。
焼け野原の希望
絶望は希望の始まり。
いつだって、終わりは始まりの母親だった。
出来るだけ平坦に生きたいと願うが、僕の願いなんてお構いなしに状況は変化していく。
変わりたくないモノは必死に守らなくては、簡単に壊れてしまう。
状況も人も環境も、自らの感情でさえも。
すぐに火がつき、燃え始める。
消火が追いつかなくなる場所もある。
そこにあった大切な思いや流れが焼け焦げ、捻じ曲がり、軽い灰になって、フワフワと舞い上がっていく。
そうなる前に消し止めた焦げ跡を慈しむように直す。
その背景には消し止められなかった轟々とした炎の渦と、既に燃え尽きた風景、そして、それを横目にまだ生き生きとした空間が広がる。
これの繰り返しだ。
大切なモノが燃え尽きないように、燃え広がらないように祈りながら、焼け跡とまだ残った大地を慈しむ。
轟々と燃え広がったモノは僕の大切なモノを過去にしていく。
しかし、僕が出来るのはもはや消し止められなくなった炎に対してではなく、既に燃え尽きた場所で新芽を出す事であり、燃え残った場所を慈しむ事だけだ。
いつか、この炎がない世界を作りたい。
否、無理かも知れない。
人生とは焼失と再生の繰り返しなのかも知れない。
それでも、いつも新芽はある。
焼け残った大切なモノがある。
僕達は何を見るのか選ぶ事が出来る。
もう消せない炎を見るか、燃え残ったモノを見るか、燃え尽きた場所に出る芽吹を見るか。
僕達はいつも問われていて、僕は炎から逃げて、燃え残りに腰を下ろして、炎に対して目を閉じたい欲求と闘いながら、今日も新芽と残った土地を愛で、少しだけ消火を試みる。
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