丁寧に生きた事を正直に話をしよう
新年度が始まり、いつもなら少し落ち着いた感じを味わっていて、それが五月病の初期症状を誘発する退屈へと結びつかないように、少し気を張ってみるような意志を持とうとか、そんな事を考えてみる季節。
今年は少し匂いが違う。
年齢のせいか、世間の流れか、僕自身の落ち着きは年間全体に間延びしていて、また張り詰めた感じも全体に点在している。
目的に合わせて、それを組み合わせ、自分自身で自分の生活のテンションを構築していく感覚がある。
これは今年からだと思う。
去年はきっと、コロナ対策による世界的量的緩和政策が引き締め政策に変わり、今起こりつつある経済負荷について不安を抱き、その対策に頭を悩ませていた。
どう暮らせばいいか、という疑問が頭の中をぐるぐる、とまでは言わなくても過ぎって騒つかせる感覚が水面化にはずっとあるような感じがあった。
今はどう暮らすか、という疑問は正直どうだっていい事だと思える。
その外枠的設計思考の意味の無さを痛感している。
お洒落に暮らしたい、余裕を持ちたい、シンプルに生きたい、などという言葉はキャッチーではあるが、具体的な意味などまるでない。
誰しもがダサくて、忙しなく、混沌とした生活など送りたくないし、だからこそ、その逆になる生き方をポジティブで抽象的な言葉で表現してみた処で意味などない。
それはただ、良く生きたいと願う人間の本質でしかなく、その事については紀元前のギリシャ哲学ですら、明確に答えとして導出していた。
数千年遅れてプラトンやアリストテレスの思考の触りを理解し始めた段階で、どう生きるか、という問いの無意味さを感じて、良く生きるという曖昧に定義される前方へ進んでいく決意を持つと、僕はただ、丁寧に生きる事しか出来ないのではないか、と感じている。
そもそも、僕はあまり丁寧な人間ではない。
事業を始めて約10年。
社会に出て、凡そ20年になろうとしているが、やってきた事を思い返せば、ガムシャラと惰性と偶然によって、前に進んできた気がする。
才能がない事に熱中し、それを仕事にするような非効率なやり方をしてみたり、大して好きではない事ができるが故に仕事をして、それはそれで充分に楽しめていたり。
上手くいかない事に無理を通して実現して、それに達成感を覚えたり、また不可能な事に挑戦して無力感に落ちひしがれながら、副産物で生活を繋いだりしてきた。
きっと出来た人間には丁寧に暮らす事など、わざわざ目標として掲げる程の事でもないだろう。
良く生きるという当然の事と同じように、丁寧に生きる事も当然の事のように処理出来る。
僕はそういう人にはなれなかった。
いつでも雑に生きて、それがガムシャラで一生懸命のように感じて、自分自身はそうでなくてはいけないのだと強迫観念的に思っていた部分もあるかも知れない。
今でも、そうゆう部分は残っていて、いつでも丁寧に生きていく事を意識し続ける事も出来ていなくて、時にまた無理矢理と力技で事態を前に進めようとしている。
それでも、それは今は丁寧な時間への接続という目的を持って動いていく感じだけはある。
僕がまた抽象的な領域に留まって、それについて考える時間は、僕自身が具体的な領域でガムシャラに行動するのを防いでくれる。
具体は抽象の骨組みとなって、抽象は具体の骨組みになる。
これは単純な言葉遊びのようで、あまり重要な意味など持たないけど、抽象は具体を内骨格として持ち、具体は抽象を外骨格として持っている気がする。
しかし、これを他者の目線から見た時には具体を支える抽象は筋などと呼ばれて、内側に通っているように見えるらしい。
理念やイメージは他者に見えるよりも、ずっと広く大きく持って始めて、具体的な行動の中に少し見え隠れする程度の事らしい。
そう思うと世の中にいる筋の通った人々は丁寧に随分と抽象的な概念を構築して丁寧に生きているのかもしれないし、初めから抽象を内骨格として設計する術を持ち合わせているのかも知れない。
僕には理解出来ない。これは高等なスキルのように思える。自分の人生に一本筋が通った人間の精神構造など把握できない。僕には困難な事である。
僕に出来る事は丁寧に鱗のように具体的事象を包み込む抽象的概念を設計し、その柔軟性と大きさで蛇が卵を飲む時のように、具体的事象を包み込む事だけ。
僕は丁寧に生きていく努力について考えて、初めから煌びやかに見えるスキルや知識やノウハウを語る事はやめて、そのバックグラウンドとなる考えを語ろうと思ったのは、僕自身が設計する具体的な行動のあるべき姿について、丁寧に作業をしている事になる為の土台が必要だと感じているからである。
ちゃんとした作業場は、仕事の腕がまぁまぁでも作業者をプロフェッショナルに見せるモノである。
僕は今後、料理のレシピサイトを構築しようと思っているのだが、自分自身の料理のスキルや知識、調理スキルのある生活を誇る為ではなく、誰でも簡単に調理をしようと心に描く事で誰かとの生活を彩る事が出来るようにしたい。
料理が出来るから料理を発信するのではなく、料理を通して生活を描く事が出来るのであれば、それを共有したい。
子供もだって、大人だって、僕に出来る事は出来る筈だし、それが僕の丁寧な暮らしの中から生まれてきたモノであれば、きっと、その受け手の人生に少し丁寧な時間を作り出す事が可能かもしれないと思えるからである。
きっと人生の作業台は、一人一人が持ち合わせる人生についての概念で、その作業台の品質が錯綜する喧騒的な日常生活の品質に影響を与えている。
だからこそ、その上で、どんな風に行動するか、によって産まれ出てくる事柄は、その作業台の空気を纏い、その感覚を人々と共有する事を可能にしてくれる。
だからレシピを書く前に、僕は、この文章を書く事にした。調理のスキルはおしゃれで美味しいモノを作る技ではなく、丁寧に暮らす手法の一つの断片的資料として、開示していくもの。
資産形成に関するコンテンツも、行き着く先は丁寧に暮らす事である。
僕自身は貧しくとも丁寧に良く生きようとする俗にいう清貧と呼ばれる生き方は出来ない。
昔話に出てきそうな清貧というライフスタイルは現代でも世界中で実践者がいるし、マスに消費されてアイコン化してしまったので本質は見失いつつあるが、ミニマリズムの本質もそこにあるのだろうと思う。
僕にはあまり上手にQOL高く清貧を設計する概念を保つ事ができそうも無い。だからこそ、貧しさは僕自身の生活も家族も守る事は出来ない。
だからこそ、資産形成の計画設計をする必要性が高まる。
暮らし自体をラグジュアリーに設計するつもりもないし、そういう趣味も今の処はない。僕が資産形成で目指すのはリッチな暮らしではなく丁寧に暮らす為の経済的地盤作りである。
だからこそ、資産形成は複合的になり、組み替えて定義を調整しながら続けていかなければ、意味がないのだが、その煩雑さは自身の意識を曖昧にする。
なので、その設計を何度もやり直す事になるのだが、実際コンテンツでキャッチーなのは、どの銘柄が成長するだとか、ポートフォリオのリスクヘッジに対するバランス配分がどうだとか、と言った話である。
しかし、投資において重要な出口はいつでも丁寧に暮らす事であり続けるのであろうと思う。
投資手法は、その手段に過ぎない。
丁寧な暮らしは時間やお金の事ではなく、意識と精神の話なのだろうと思うが、僕自身は、内側で充分にそれらを構築する事が難しい。
だからお金と時間は重要になるし、その具体的なアクションは事業という形で現出する。
事業を設計する事は時間とお金を設計する事であり、時間を使わず価値を生む事が事業の本質であるが、時間を使わずに価値を生むのは至難の技であり、結果、時間コストの設計こそが事業の本質となる。
料理に例えるなら、時間は塩であり、介在しなければ難しいがメイン食材ではない。
塩のステーキ、塩のスープは不味いだろうし、体を壊すだろう。
だから、牛のステーキやコンソメスープを作る訳だが、これが豚のステーキと味噌汁であっても、必ず塩は介在する。
塩ラーメンと言われる料理であっても、スープの旨味の中心は塩ではなく出汁である、
事業もいつも時間そのものを販売してもうまく行かないのだが、何かの価値に時間を介在させて成立させる。
料理の塩と事業の時間は似ている気がする。
そして料理の肝は旨味であり、事業の肝は価値である。
そして体験は重要な外骨格として存在し、人はそれを事業の本筋として見るのである。
僕が丁寧に暮らすにはお金が要る。
時間が要るし、食がいて、仕事も要る。
これらがちゃんと作業台に乗って、構築されて、その価値を人々と共有可能である事に意味がある。
僕はそう思って発信活動をする。
これは僕の発信の大前提の話。
SNSに触れ始めて15年以上経ったが、今さらになって、今、発信の意味を自ら定義する。
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