自分で動く経営者の末路

自らの傷に塩を塗り、死刑台で縄を首にかける。

そんな馬鹿な行いを人間はする訳はない。

しかし、そんな馬鹿な行いを行ってきた自分自身の自生録。


無能経営者は多忙

実は経営者の大半は給与が驚く程安い。
これは月給幾ら、年収幾ら、という視点では一概にそうとも言えない。

ただ、時給という見方では、最低賃金を割り込む経営者も珍しくはない。

そして、ハッキリと言おう。
そうなる経営者は正直、経営の才能が無い無能者だ。

その筆頭に僕自身がいる。
一日20時間働けば、時給1000円でも日二万。
休みなく働けば月収60万円になる。

しかし、現在の東京都の最低賃金換算では最低賃金以下の時給だ。

月収60万でありながら、アルバイト以下の賃金で健康も生活も犠牲にして生きる馬鹿みたいな生き物になれてしまう。
経営者には基本的に労働基準法は適応されない。
だから、合法的に、このような状況に陥る事が可能だ。

孤独な戦い

多忙な経営者は無能だが、孤独な経営者も無能だ。

多忙で孤独で無能。
精神的にキツい評価ではあるが、事実そのものである。

しかし、何故、孤独なのかは至極簡単な答えが出る。
それも社会人一年目で口酸っぱく言われる仕事のルールが守られていないからだ。

報連相。
これが為されなければ、経営者は孤独になってしまう。

報連相

これは簡単なようで、実際は簡単ではない。

報告を貰う為には仕事をして貰い、更に情報を報告用にメタ化して貰わなければならない。
連絡を貰う為には仕事を進めてもらい、状況を見てもらわなければならない。
相談を貰う為には仕事を受け持って貰い、目的意識を持って取り組んで貰わなければならない。

ただ、作業をして貰っても、指示に従って貰っても、業務を割り振っても、報連相は機能しない。

自分でやり出したら終わり

これは実際、どんな立場で仕事をしていてもそうだが、悪い組織は上長に仕事が集中していく。
割り振っても戻ってくる。
そして、仕事は顧客や更なる上長、省庁からも次から次へと降ってくる。

こんな状況の中で、最高経営トップが「自分でやる」という選択肢は、自殺行為でしかない。

規模の縮小

さて、僕自身の話をしよう。
上記で書いたダメな経営者の例は、完全に僕、そのものを指している。

いつか、心が破れるのだ。
当然の結末である。

そして、最悪なのは心が破れなかった場合だ。
その場合は仕事の流れや周りの環境が先に壊れ始める。

特にやる気のある無能経営者が陥る状況だ。

僕は、その例に当て嵌まる。

そして、そうなった時、残されている選択肢は事業の大幅な後退だ。

自分でやり出した流れの責任を取らなくてはいけない。
つまり、自分でやる事をひたすらに増やし続けるしか無い。

そうすれば、すぐに何もかもやり切れなくなる。
それを繰り返し、事業は縮小し続け、自身の掌に乗せられるサイズになるまで、事業を縮小せざるを得ない。

救いの道

事業が縮小するのは自業自得だし、掌サイズに収まった事業が生活コストを充分に稼げる保証はない。
その内、市場に淘汰されて消えてなくなるかも知れない。

そんな状況を解決する道は
①自身が経営者を辞める
②救世主の到来を待つ
しか無い。

幸い、僕の場合は生活コストが稼げなくなる心配は無い。
完全に運よくではあるが、僕の場合は資産運用によって生活コストを捻出するノウハウがあるし、事業も技能的依存度が高い故、自身だけで仕事を回しても死ぬ事は最悪考えづらい。

ただし、誰も守れない。
関わってくれた全ての人を自身の無能さ故に、放置する事になる。

そうであっても、相手側からすれば、無能な人間に振り回されるより、幸いなのかも知れないが。

自身が経営者を辞める

経営者を辞める為には後継人が必要だ。
それは自身という無能者をクビにする為に経営者にとって、必要なリソースとなる。

それによって、組織は無能な経営者から解放される。
運が良ければ、自身の苦悩を元に新しい経営者のサポートを行う事が出来るかも知れない。

この場合は、多くの人が不幸になる結果を防ぐ事ができる。
事業によって生活していた人達はプラットフォームを喪失しなくて済むし、無能な経営者が消えてくれる。

救世主の到来

これは同じ視点、ミッションを共有してくれる存在が現れる事だ。
これで経営者は自身の内だけで、物事を抱えている必要はなくなる。

また、仕事のフローもたった一人の救世主の到来によって一縷の望みを持つ。
つまり、報連相が機能し始める。

この場合は現在の悪い流れを断ち切り、自身も更に向上し、組織を再構成出来るかも知れない。

ただし、これは完全に他力本願の希望でしか無いのだが、時に社内から、社外から救世主が現れる事も無い訳ではない。

無給の経営者

さて、希望的話題をやめて現実に戻ろう。

縮小を始めた事業が地獄的であるのは、支出よりも収入が先に縮小を始める点だ。
出ていくお金が変わらないまま、入ってくるお金が減る。

事業が縮小し、出ていくお金が減って来る頃には、更に入ってくるお金が減る。

これは縮小が続く限り、継続される流れだ。

この期間、基本的に経営成果はずっとマイナスなのだから、経営者は給料を取る資格は無い。
資格がなくても取る経営者もいるだろうが、僕はそんな気にはなれない。

全てが終わった世界

縮小も終わり、自分だけがポツンと残る。
その時は人の中で、孤独に戦っていた時よりも、もしかしたら孤独感は薄れているかも知れない。

もしくは業務的な居場所においては、自分自身すらも居ないかも知れない。

即ち、事業解散という結末かも知れない。

ホームレスや世捨て人には、きっと元無能経営者が沢山いるのだろう。
もう、その時は再び戦う力は残っていないかも知れない。

もしくは、バイタリティ溢れる人物は再起し、成果を収めるのかも知れない。
僕自身は残念ながら、その気概は持ち合わせていない。

僕は自分自身の罪を受け入れ、全てが終わった世界がくる事に抵抗し、改善し、虚しい対処を続けながら、自らと自らの事業が消散していく中で、まるで自由落下のエレベーターの中で恐怖の無重力体験をするような心地で、地面に激突するまでの期間を過ごす。

その後はグチャグチャになった心と体で、残りの人生の暇潰しを生きる事になるのかも知れない。

朝の露

北欧神話では全てを焼き滅ぼすラグナロクの後、世界樹に一滴の露が垂れ、そこから人間が始まったらしい。

絶望と混沌の先、全てが壊れ、焼かれ、破壊された世界の、まだ燻った空気の中で、何かがもう一度、救いを与えるかも知れない。

これは最後の希望だ。
全てが壊れ、失われ、消えた世界に、今は意識に昇る事すらない希望があるかも知れない。

人は時に絶望する。
無能な人間なら、尚更だ。

しかし、絶望の先には、ある意味希望しかない。

最終戦争後の朝露が、希望の象徴であるのは、その前に流れていた小川の清流や、鳥の囀りや、人々の笑い声が全て消え失せたからだ。
何も失わなかった世界には一滴の露よりも素晴らしいモノが沢山あった。

ただ川は枯れ果て、鳥達は焼けこげ、人々が過ぎ去った後には、一滴の露が希望になるのだ。

それは素晴らしき事が消えていく中で唯一の希望となるだろう。
そして、その訓話は失いゆく者の希望になり得るのだ。

終わりゆく世界

自由落下の状況で、僕はどれくらいの時間を過ごしただろう。
実際には大した時間でもないのかも知れないが、随分と長い時間、ここにいるような気もする。

激突する地面は刻一刻と近づいてくる。

でも、まだ激突はしていない。
まだ、望める。

朝露の時まで、自力と他力で、出来る限りの事を望む。

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