時を超える、イヴ・クラインの想像力。〜古のジパングを夢見て 『イブ・クラインと和倉温泉』 ①
初めて『和倉温泉』という地名を聞いた時、それがどこだか全くわからず、想像力の限りを尽くしても行ったことも聞いたこともなかったのでよくわかりませんでした。
つい最近まで金沢21世紀美術館でイヴ・クライン展が行われており、会期終了間近だったので観に行ってきました。イヴ・クラインの展覧会が日本で行われるのは数十年ぶりです。
ちなみにタイトルに『イヴ・クラインと和倉温泉』とありますが、別に和倉温泉が『イヴ・クラインゆかりの地』とかいうことでは全くございません。ただ私が泊まった宿が和倉温泉という場所だっただけです(笑)
遡ること一月前の3月上旬、金沢へ行くことを決め宿をどこにしようか考えている時、せっかくなので金沢に行くなら綺麗で良いところに泊まりたいなーなんて思っていたのですが、温泉があるところは結構金沢駅から遠かったりしました。
そしていい感じの宿が和倉温泉駅と言う駅の近くにあったので地図で駅を調べたらこんなところでした。
かなり半島の上の方じゃん…。
予約を取るとき頭によぎったのは、間違いなく金沢駅周辺のおしゃれで食事付きの綺麗なラグジュアリーホテルの方が無難で、確実にいいのか悪いのかもわからない、行ったこともないかなり過疎化が進んでそうな半島の奥地はリスクが高いということでした。
そもそも今回はイヴ・クラインを見ることがメインでそれをみたら余計なことはしないで早めに帰って仕事でもしようと思っていたのですが、全くもってこの予約前の宿探しの段階で私の中ではイブ・クラインはかなりどうでも良くなっていました。
感覚的にはイヴ・クラインは能登半島の刺身のツマかシソの葉ほどの存在になっていて、今回の旅のメインは能登島(能登半島の先にある島)そこに何があるのか?そればかりが気になっていました。きっとかつてのジパングを夢見た外国人も同じような心境だったと勝手に思っています。
なぜか私は昔から半島や突端というものが好きでした。能登半島、下北半島、伊豆半島、三浦半島、男鹿半島、、、、とにかく色んな半島を見てきました。多分海が好きで半島は本島からさらに海に近い場所にせり出ているからだと思います。
あとなんか自分が本島からずれたどこかの先端にいるというのがいいのかもしれません。
そんなことを思いながら、とりあえず最初の目的地金沢21世紀美術館に新幹線で向かいます。
いつもそうですが、振り返ると新幹線でビール飲んでる時が旅行の楽しさのピークです。
2時間ちょっとで到着した金沢の天気はめちゃくちゃ土砂降りでした。
イヴ・クライン展の会場内は写真を撮れる場所が殆どなく、いまだに何を基準に撮影可能不可能を決めているかわからないのですが、いくばくかの撮影ができた写真と他引用からの画像をもとに紹介します。
イヴ・クラインはフランスの作家でいわゆる筆に絵具をつけて描く『絵画』のようなものを主題とするのではなくて、もっと人間の感覚的なものや根源的なものをベースにした作品を作っています。特にテーマとなるものが「非物質性」、「精神の自由」、「空間への飛翔」、「宇宙的な想像力」などです。
最も代表的なものとしては自身の名前を冠した『インターナショナル・クラインブルー』という独自に絵具屋に頼んで作ったブルーの絵具です。
絵具をメデュウム(接着剤)で溶いて『何かを描く』のではなくて、『絵具(顔料)』という物質そのものの強さのみを提示して作品化しています。
おおーって感じで壮観でしたが、美術館の人たち片付ける時大変そー、、、って思いました(笑)
バーナーの炎でダンボールに絵を描いた作品。
人間の体にインターナショナル・クラインブルーの絵具を塗りつけて魚拓のように貼っ付けた人体測定絵画。
日本の魚拓や広島の原爆の影などから影響を受けているようです。
他にクラインは日本へ留学してその際に柔道の黒帯を取得したりしており、これも彼が提唱する身体性との強い関わりを産むことになっています。
一瞬たけし軍団のコントかと思いました。
らしいです。
ちなみにこの写真は実際に飛び降りたところを撮ったものではなく、合成写真なんだそうです。写真は確かにかっこいいのですが、当時はフォトショップもない時代なのでイヴ・クラインが家でハサミでチョキチョキやって画像を合成しているところを想像するとなんかかわいく思えます。そしてその状況を写真に撮っておいて、『イヴ・クラインの<空虚への飛翔>のための空虚な準備中』とかいうタイトルつけたかったです(笑)
これらの作品はその当時の状況や美術の在り方、それ以前の歴史を考えながら見るとそのエッセンスにはとても感化されます。しかしかつての人々が受けた衝撃を今見ても同じように受けるかというとそれはなかなか難しそうでした。
当時画期的だったスーパーファミコンも、3次元のポリゴン格闘ゲームも、カラーで撮影可能なカメラ付き携帯電話も、かつての技術からするとそれらは『クリエイティブジャンプ』と呼ばれる程の大きな飛躍として捉えられるのですが、それらは時と共にさらに大きなクリエイティブジャンプの踏み台となり、その後は歴史という名の倉庫にストックされていきます。
今展覧会のイヴ・クラインの作品群も今見ても真新しいというよりは、そんな歴史の一地点を見るような気持ちで作品を見ていました。
他、イヴ・クラインに関連した作品が半数くらいを占めていきます。
最後に美術館の館内をぐるりと一周すると奇妙な光景に出くわしました。全くそこは展示室でもなんでもない通路の一角なのですが、なぜか長蛇の列ができていたのです。
そこにあったのはうさぎ型の耳がついた5つの椅子でした。
彼ら彼女らはそこに座り後ろ向きになって頭上に両手でうさぎの耳と同じポーズを作り、その様子を携帯電話で遠くから撮影していました。
これはマルセル・デュシャンのアイロニーなのか?
とある海外の美術系の本の中で『あなたにとって現代美術作家とはどのような人?』と小学生の女の子が聞かれていて、その小学生の女の子は、
と答えていました。
そしてその小学生の女の子がその後美術ギャラリーの行う教育プログラムを受けてそのプログラム終了後、再び『あなたにとって現代美術作家とはどんな人?』と聞かれると、その答えは、
というものでした。
マルセルデュシャンが美術館の中に男性便器を置いたとき、その既製品の便器は美術館という制度の中に置かれることによって既製品から美術品として扱われるようになるのではないか?今から100年前に発せられたその問いは美術館というものの仕組み、制度そのものを浮き彫りにした歴史の始まりであり、それは今も現代美術という枠組みのスタートラインとして規定されています。
まさにこれこそは美術における『何かに気づいた人』の最たる例だと思います。
デュシャン以降、作品とは技術と努力の結晶によって作られた成果物ではなく、作者によって『見出される』という行為によって生まれるいわば概念のようなものということが発見されました。そしてそこからの美術、とりわけ現代美術と言われるジャンルでは大きく作品の展開の仕方が異なっていきます。今回のイヴ・クラインの作品も作品の概念を覆すという意味では根本が同じものだと思います。
そして時代がさらに進みそこからテクノロジーの発達なども相まってインスタレーション、ビデオアートなどの作品が生まれます。
現在では大きな美術館の現代美術展などに行くと大抵2割から3割はビデオアートなどの映像作品が会場を占めています。
正直今まで色々なビデオアートを見てきましたが、それらがすごく楽しい、これは良かった!と思うようなものは殆どありませんでした。見ていていつも思うのは『一体これは何を表しているんだ…?』ということと『いつ終わるんだろう、このビデオ?』ということばかりです。
現代美術作家は何かに気づいていると言いますが、彼らが一体何に気づいているのか正直一向にわかりません。
むしろ大きなお世話ですが、これはあまり面白くない、ということに彼らは早く気づいた方がいいのではないか?などと思ってしまいます。
現代美術におけるビデオアート作家のビデオの内容も問題なのですが(髪をただ永遠と切るだけの作品とか)しかし、現代美術作家はさらにもっと大切で重要な事実に気づくべきだと思います。
もう一度思い出してみましょう。現代美術作家とはどんな人たちか?
そう、何かに気づいている人たちです。
ではこのビデオアートに潜む大きな問題。
その最も大きな問題とは何か?
それは、作品を映すスクリーンの大きさに対してどの美術館の作品も
明らかに設置されているベンチの数が少なすぎるということです!!!
そして、さらに気づくべき大きな問題は、
そのベンチが、
恐ろしく座り心地が悪いということです!!!!!!(笑)
そんな思いを胸に美術館を後にして、いざ、望郷の地、和倉温泉へと向かいます。
2ヘ続く。