《今日の新譜》クラリネット五重奏 セレスティーヌ・ワルツ
《今日の新譜》クラリネット五重奏 セレスティーヌ・ワルツ
ルービンシュタインやホロヴィッツ、中村紘子も演奏した作品をお楽しみください。
ぜひこちらからYoutubeで全曲視聴してみてください。
参考音源
https://youtu.be/jx8tvAEfFl4
Youtubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCbc_7CUTWTYOuyu_WQcflxQ
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クラリネット五重奏 セレスティーヌ・ワルツ
ジョセフ・ラム作曲
Celestine Waltzes
Joseph Lamb
編成はCl.4本、Bs,Cl.です。
木管五重奏、サックス五重奏、金管五重奏版は発売中です。
20世紀初頭のアメリカン・ワルツ作品を、ぜひお楽しみください。
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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3
https://animato-jp.net/rec-band/gakufu.html
作曲者
ジョセフ・フランシス・ラム (Joseph Francis Lamb, 1864-1933) は、アメリカ合衆国の作曲家、ピアニスト、音楽教師です。
シカゴに生まれ、シカゴ音楽大学で作曲とピアノを学びました。
その後、ヨーロッパへ渡り、ベルリン音楽院で作曲を学びました。帰国後はシカゴ音楽大学で教鞭を執る傍ら、作曲活動を続けました。
「セレスティーヌワルツ」は、ラムの最も有名な作品の一つです。
1905年に作曲され、出版されました。3つのワルツで構成されており、優雅で美しい旋律が特徴です。
Miss A. C. Lamb.に献呈されています。
「セレスティーヌワルツ」は、多くのピアニストによって演奏されています。
有名な演奏家には、アルトゥール・ルービンシュタイン、ヴラディミール・ホロヴィッツ、ヴァディム・チェルノモレッツなどがあります。
「セレスティーヌワルツ」は、アメリカ音楽の代表的な作品の一つとして評価されています。
優雅で美しい旋律は、世界中の聴衆を魅了し続けています。
「セレスティーヌワルツ」は、日本でも多くのピアニストによって
演奏されています。有名な演奏家には、中村紘子、内田光子、小山実稚子などがあります。
「セレスティーヌワルツ」は、映画やテレビドラマにも使用されています。
●ジョセフ・フランシス・ラム Joseph Francis Lamb (1887年12月6日 ~ 1960年9月3日)
クラシック・ラグタイムの ビッグ3 と呼ばれるアメリカ人のラグタイム作曲家の一人。
(他のビッグ3、すなわち スコット・ジョプリン Scott Joplin と ジェームス・スコット James Scott が共に黒人だったのに対し)
アイリッシュ系アメリカ人のラムは、東部(ニューヨーク近郊 ニュージャージー)で一般人として生活しながらも
生涯に渡って優れたラグタイム作品を数多く作曲しました。
その作品群は、20世紀初頭のラグタイム時代から第二次大戦後のラグタイムリバイバルに至るまで、彼の終生に渡って発表・出版されました。
また近年においても未発表曲を集めた楽譜集や初の伝記が出版されるなど、
ラグタイム分野を中心にアメリカ音楽界の注目を当世でも集め続けています。
これらの事実を考慮するならば、アメリカ音楽史に名を残すべき偉大な作曲家として評価され、知られるべき音楽家です。
ラムは、1887年の年の瀬 12月に、ニューヨークの南西隣に位置するニュージャージー州モントクレア Montclair で、
大工を営む家庭の4人兄弟の末っ子として生まれました。当時のアメリカは華々しい成長期 - いわゆる「金ぴか時代」を迎えており、
娯楽文化の発達とピアノ製造拡大・様々な印刷楽譜(シート・ミュージック)の大量流通が大きな市場を生み出していた時代で、
裕福な家庭だったラム家の二人の姉もご他聞にもれずピアノを習っていましたので、ラム自身も音楽が身近にある環境で育ったと思われます。
彼自身は正規の音楽教育を受けることなく独学で(また、姉達に教わりながら)ピアノ演奏をマスターしていったようですが、
その一方で早い時期から作曲も始めていたと推測されています。(五線譜の使い方を覚える以前から「黒玉の羅列で曲を書いていた」という逸話があります)
12歳の時(1900年)に父が亡くなると、彼はカナダのオンタリオ州バーリン Berlin (※1916年に Kitchener と改名)の
学校に寄宿生として入学することになり、1904年に(恐らく中退で)学業から離れるまで彼の地で過ごしました。
この頃から本格的に作曲を始めており、未出版の曲が1900年付で作曲されている記録があるほか、
1903年には初めて「ラグ」と銘打たれた作品が作られています。(「Walper House Rag」、タイトルは学校があったバーリンの著名なホテルに因んでいます)
学校を辞めたラムは、故郷のモントクレアに戻って働き始めます。一時期、兄を訪ねてサンフランシスコへ足を運んだものの、
1906年には(歴史的なカリフォルニア大地震の発生前に)故郷へ戻り、新たにニューヨークで音楽出版者に雇われることになりました。
当時のニューヨークでは音楽産業が著しい成長を遂げている最中で、多くの出版社がラグタイムを筆頭に様々なピアノ楽譜(シート・ミュージック)を
出版・販売し市場に音楽を提供していました。(往時はまだレコードも発達して無かったので、音楽は「楽譜を通じて」社会に流通していました)
また、スコット・ジョプリンのヒット作を扱っていたことで今日にも名を残している 「スターク社」 も、
同じ1906年に中西部のセントルイスからニューヨークへ進出し販売店をオープンさせましたが、
ジョプリンのファンだったラムもこの店に足しげく通うようになります。
そんなある日、いつものようにジョプリンの楽譜を買い求めに来た際に
「ジョプリンの曲が大変に好きなので、持っていない楽譜は何でも欲しい」という話を、店にいたスターク婦人に話したところ、
店内に居合わせた黒人の男性が話しに加わって「どの曲を買えば良いか」アドバイスしてくれたそうです。
お礼を言って買い物を済ませたラムが、帰り際に「一度、尊敬するジョプリンに会ってみたいものですね」と付け加えると
「あら、そうなの」とスターク婦人が答え、先ほどの男性を指差して告げました。「彼が、その人よ」
その日、ラムはジョプリンと共にニューヨークの町並みを歩きながら音楽談義に花を咲かせ、
以来、ジョプリンは彼の親友・師として(1907年に亡くなるまで)様々なアドバイスをするなど親交を深めたのでした。
なお(公式に知られた)ラムのデビュー作である 「センセーション Sensation 」(1908) の出版の際も、
当初は渋っていたスターク氏に対して曲を推薦し、編曲者の名義を貸すことで販売支援をしたとされる逸話が残されています。
その後、1919年までの約10年に渡ってスターク社はラムのラグタイム作品を積極的に出版・販売し続け、
先行して取り扱っていたジョプリン及びジェームス・スコットと並んで、ジョセフ・ラムは後に「ラグタイムの3大作曲家」とし
て評されるようになります。彼の作風についての評論は他に譲りますが、
ジョプリンの緻密な構成力とスコットのピアニスティックな技巧を混ぜ合わせながら、
独自のメランコリックな哀愁を多様なリズムの中に活かす作風 が感じられることでしょう。
私生活では、1911年にヘンリエッタ・シュルツ Henrietta Schultz と結婚、彼女の実家があるニューヨークのブルックリンで新たな生活を始めます。
ラグタイム作品の作曲に併せて編曲者としての仕事も行う等の音楽活動は継続していたものの、
1914年に安定した収入を求めて家具関係の貿易会社に職を得ると、ラム自身は会社勤務の一般人として暮らしながら
演奏会や音楽・芸能界等とは一線を画す生活を送るようになります。(もともと、作曲と出版以外の活動はほとんどしていなかった訳ですが)
そのため、後にラグタイム・リバイバルが起きた際にも
「ラムというのは、ジョプリンのペンネームである」と信じれられていたとの逸話が残っているくらい、彼個人については無名のままでした。
それに加えて、1920年にヘンリエッタが病気で亡くなると、5歳になる一人息子のジョセフ・ジュニアを連れたラムは故郷のニュージャージーに戻り
姉のアナスタシアの一家に身を寄せることとなります。なお、ラム自身が伝えるところによれば、
この転居の際に多くの楽譜が行方知れずになってしまったそうです。仕事はニューヨークで続けていましたが、
ちょうどその頃から時代は新しい音楽「ジャズ」を求めるようになり、ラムも自作出版という表舞台から、徐々に遠ざかるようになりました。
1922年にニューヨーク在住の友人の妹だったアメリア・コリンズ Amellia Collins と結婚すると、
コリンズ家の近くに建てたブルックリンの新居に移転、息子のジョセフ・ジュニアを筆頭に1924年に生まれた長女のパトリシアほか
2人の息子らと共に、生涯をこの家で幸せに過ごしました。新しい家にもピアノが置かれ、ラムは終生の趣味として自宅での演奏を続けていましたが、
ラグタイム以降の新しい音楽スタイル(ノベルティ・ピアノ)の作品も「週末には家で作曲していた」と伝えられています。
なお、1929年には(会社勤めの合間に)一時的にミンストレルショウの音楽監督と楽曲提供を行っていたことが(今日では)明らかになっています。
1940年代になると、アメリカ国内で徐々にラグタイムへの関心が湧き上がり始め、スィング系ジャズ等のレコードに(アドリブ素材として)ラグタイムが
採り上げられ、録音される機会も増えてきました。
そんな1949年のある秋の日、初めてラグタイムを包括的に紹介する本を企画し執筆中だったルディ・ブレッシュ Rudi Blesh と
ハリエット・ジャニス Harriet Janis は、やっと探し当てたラムの自宅を訪れ、確信を持てないままにドアをノックするところでした。
しかし自宅には誰もいなかったため、近所の人に尋ねたところ結婚して近くに住んでいた娘のパトリシアの家を教えてもらったので、
今度はその家をノックすると幸いにもパトリシアは玄関に出てくれました。この見ず知らずの人物の質問に「確かにジョーは私の父ですが」と
パトリシアが応えたところ、ブレシュは静かな住宅地に響き渡るような大声で叫んだと言われています。
「ついに、見つけたぞ!」 そしてこの瞬間に、まさに ラグタイムの新しい歴史 が幕を開けたのでした。
その日の夕方、仕事から帰宅したラムの家を再び訪れたこの訪問者に対し、ラムの一家は当初、懐疑的な眼差しで対応していたと言われていますが、
それほどにラグタイムは時代の一線から遠のいており、またラム自身が過去の喧騒たる時代とは離れた場所で、この音楽を愛好していのだと言えましょう。
その時の様子を伝えるこんな逸話も残されています;
ブレシュが、執筆中の本(They All Played Ragtime 「みんなラグタイムを演奏してた」)で貴方を紹介するつもりだ、と話したところ、
それを聞いたラムはこう尋ねたそうです。「ブレシュさん、その本に載るのに、いったい私は、いくら お支払いしないといけないんですかね?」
そんなラムを取り巻く環境にも、彼が会社勤めを正式に引退する1957年頃には変化の兆しが訪れていました。
50年代から始まったラグタイム復興や前述した本「They All Played Ragtime」の出版に併せて彼への評価が高まり始めており、
自身も新たな音楽生活を「第二の人生」として楽しみながら過ごすようになります。
そして 59年には(当時はまだ最新の機械だったテープレコーダーを使って)自宅でのピアノ録音が企画され最初の収録を実施、
その後も続けられた新たな録音からはインタビューと自作ラグの演奏を収めたレコード 「A Study in Classic Ragtime」 も製作され、
翌年 Folkways から発売されました。しかし、その翌年の 1960年 9月に、突然の心臓発作によりラムは自宅で急逝しました(9月 享年 72歳)。
帰らぬ人となったラムですが、彼の作品と名声の方はかってのように衰えることは無く、
1964年には多くの新曲が含まれた楽譜集 「Ragtime Treasures」 が新たに Mills Music から発売されます。
そして、二年後に発売された第3版の 「They All Played Ragtime」 にはアラスカ州が正式に米国に編入されたことにちなむ
「Alaskan Rag」(1959) が収録されました。そして続く70年代には、スコット・ジョプリンのラグタイムを全面的に使用した
映画 「スティング Sting」 のヒットを契機に 世界的なラグタイム・ブーム が巻き起こります。
3大作曲家として知られるようになったラムの作品もレコードや演奏会に取り上げられる機会が増していき、
世界中に彼の名前と作品が行き渡る時代になりました。
そして近年では、未発表のラグや珍しい歌曲を含む楽譜集 「A Little Lost Lamb」 が Ragtime Press から数十年ぶりの新譜として
2005年に発売され、また先の 2012年にはラムの子供達の協力を得て書かれた本格的な伝記 「Josepf F. Lamb - A Passion for Ragtime」 が
出版されるなど、未だに彼への関心は絶えることなく続いています。
アトリエ・アニマート
https://animato-jp.net/