倖せの構造
私はカナダ人を始め、10人の大所帯でシェアハウスに住んでいます。それ自体は倖せでもなんでもありません。そういう生活がある、ということだけです。その生活で幸せと倖せについて教わる場面があったので、他人の言葉ですが頂戴してここに私の言葉で掲載します。
昨日、同居人のカナダ人が友だちを3人連れて来ました。
あれま、大変。居間でお会いすることになった、偶然居間にいた私たち。
1人は自分のシチューの仕込みの途中だったのでシチューを作り続けました。
1人は共通の言語があったので、友だちの1人と話していました。
私はというと、たいへんたいへんとバタバタしておりました。
どうしよう!?私はいま食材も飲み物も切らしてるんだった!と何のおかまいもできない私に焦っていました。
なんとか、同居人のくれたタケノコを薄くスライスして、刺身にしてお出しします。わさびと醤油しかないんだもん。一応可愛らしく扇状にスプレッドして盛り付けをした感じにして、お皿をお出しします。
「ぷりーずとらい、ごにょごにょ」
そんな感じでこわごわお出しするのです。
あ!そういえば部屋にライム眞露があった!それをお出ししよう!
「あー、あいうぃる、さーぶまいぼとる!あいうぃるばっく、うぃずまいぼとる!」
とだけ言って部屋に戻り、瓶を持って居間に降りると。
「Join!」
そんなこと言われたら断れないじゃない。
ということで英語とフランス語のみが飛び交うフィールドにイン!
すとん、と腰を下ろして、おはなしを聞く。
……うん!半分くらいかな!理解できるの!
なぜなら、彼らは私の存在を確かに認識していて、とてもゆっくり、わかりやすく英語を使ってくれるから。
「See you soon!」
そう言いながらお家を後にしたカナダ人同居人のお友だち。
その夜、私はカナダ人同居人に聞いた。
3単語ずつ、たどたどしい英語で。以下は意訳。
私がいてよかったのかな?ごめんね、なにもおかまいできなくて。と。
私がいたせいで、もっとおはなしできたはずなのに、ごめんね、と。
カナダ人同居人は笑顔でこう言いました。
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君は、自分の生活を過ごすこともできた。突然の来訪だからね。ここはシェアハウスだ、それが当然、当たり前、ベースなんだよ。
君は私たちのために何かしなければと思って、例えばタケノコやボトルを出してくれた。それはとてもエクストラなことなんだ。
まず、そんな人の思い、エクストラなことが私たちにとってはエクストラなHappyなんだ。
そして、君は私たちのグループに入って、腰を下ろして、話を聞いて、ときに話をしてくれただろう?
私たちは家で各自で持ち込んだ1ドリンクを飲みながら皆でいることができた。これが、まずベースのHappyなんだ。
確かに、君の言う通り、もしかすると、君がいない方ができた話もあるかもしれない。それが君の言う「もっとの幸せ」なのかもしれない。
でも、私たちは本来の、ベースのHappyがあることがHappyなんだ。君の存在や奉仕はエクストラ。Happyの上乗せ、スタックなんだよ。
君のおかげで、Happyは上乗せされた。君がもっと英語ができてフランス語ができたら君の言う「もっとの幸せ」があったかもしれないが、「もっとの幸せ」を望んではいない。今の君とHappyをシェアしたいんだ。
ぼくたちがいる、それがベースのHappy。
偶然にも君がいてくれる、それだけでエクストラなHappy。
そして、君が望む「もっとの幸せ」という構造じゃなく、もっと小さく、ひと言話せた、タケノコを食べられた、そうした小さなエクストラなHappyを重ねていくHappy。
Happyは大きく1つじゃないんだ。そしてそれを獲得できるかできないかじゃない。小さく1つ1つを重ねる、スタックしていくものだと思うんだ。
スタックした小さなhappyを、もたらしてくれた君とシェアする。君は僕らと話せて、僕らも君と話せた。小さくてとても素敵なことだ。
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ひとの数ほど幸せの形があるとはいいますが。
人と人でシェアする小さく重なっていくHappy。
それを人は倖せと呼ぶのかもしれないなと思わされました。