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汽水空港イベント 「マジョリティの特権を問い直す ケイン樹里安さんが教えてくれたこと」についての感想

2022年7月24日、鳥取県湯梨浜町にある本屋さん、汽水空港さんにて開催されたイベントで感じたこと、考えたことの雑記です。

「マジョリティの特権を問い直す ケイン樹里安さんが教えてくれたこと」というタイトルで開催された本イベントは、2019年にケインさんの共編著「ふれる社会学」(ふれる社会学【忽ち8刷り!】 ケイン 樹里安編著 - 北樹出版の大学教科書)刊行記念トークイベント「差別のカジュアルさにふれる」にてケインさんと共に登壇された(「ふれる社会学」の各章の執筆担当者でもある)栢木清吾さんと稲津秀樹さんの両名を迎えて開催されたものです。

今年若くして亡くなられたケインさんの研究やこれまでの蓄積を踏まえ、教科書かつ入門書として完成した「ふれる社会」で提示されたケインさんによる「マジョリティ」の定義「気づかず・知らず・みずからは傷つかずにすませられる」特権(privilege)を持ったひとという言葉を出発点に、気づかされた後に、ひとはどうしていくのがよいのだろう?ということを問い直すという企画、と認識しました。イベントの趣旨は主催の汽水空港さんのページ( https://www.kisuikuko.com/news.html )もご参照ください。

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改めて以下は個人の感想・雑記として。

終盤、フロアを交えての時間になり、マジョリティに対する概念であるマイノリティとは誰か?の話に付随して「(個々人のつらさを比べるものではないが)どこからどこまでがマイノリティなのか?という線引きはどこにあるのか」という議論で、「左利き」の話が出た。

トークイベントの主眼となる当事者(これはケインさんや栢木さん、稲津さんのメインフィールドでもあるのだろう)は移民やミックスルーツの方の話が多く、「比べるものではないが」という前提を付した上で、自己存在を大きく揺るがされる・差別にさらされるようなマイノリティとしての当事者性を「左利き」は備えていないのではないか?という問題提起だった(そしてそれは左利きとして生まれ、右利きに矯正し/され現在を生きている現状からの、偏見などではない1つの個人的なライフヒストリーに基づく言論であった)。

その問題提起にその通りかもしれないと思う反面、どこか心の中でチクッとした想いもあった。私は矯正しなかった/されることを体が拒否してきた左利きである。その後に「ここは本屋さんですからたくさん本を紹介しながら話をします」というルールの下、稲津さんはマイノリティの線引きというテーマに関連する本と概念として、ロジャース・ブルーベイカーの「グローバル化する世界と『帰属の政治』」( グローバル化する世界と「帰属の政治」 - 株式会社 明石書店 )から、「帰属を迫られる」経験があるかどうか?という点を挙げてくださった。

先の左利きへの指摘に対する心のちくっとと、この「帰属を迫られる」という言葉から、マジョリティがその特権に気付いた後にどう「よく生きるか」のヒントが見えた気がする。

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イベントの中では、研究者でありながら広くメディアや社会活動を通して問題提起をしていたケインさんの話も多く出ていて。自身の有するルーツが「ハーフ(と呼ばれる)という当事者集団」においてどのように見られるか、ということにも彼は注視していたというエピソードがあった。ハーフ(と呼ばれる人間)としての側面を持つケインさんは、人生につらい思いもあるが「ハーフの中でもまだマシ」な自分が社会でそのマイノリティ性について発信するということで、社会に既に存在する「ハーフ像」を強化してしまうのではないか?というような葛藤を抱えておられたという話だった(と認識している)。

ここでは当事者性(common)を持つ人間として、差別にさらされるような「帰属を迫ってくる」マジョリティの持つ「気づかず・知らず・みずからは傷つかずにすませられる」特権について問題提起をしつつ、当事者の共同体(community)においては「気づかず・知らず・みずからは傷つかずにすませられる」特権性を自分が有しているのではないか?と常に自問自答していく姿勢がうかがえる。

確かに「左利き」は社会生活においては、「損」をすることはあっても、「帰属を迫られる」経験(とそれに付随する差別)を受けるという環境からは半ば解放されたと言える当事者性であるという主張は、「比べるものではないが」、理解できる。

しかし自分の人生をふり返った時に、公的な領域(public)でそうした「帰属を迫られる」体験がなくとも、共的な領域(community)で考えれば、ある程度、自己存在を揺らがされるような、「帰属を迫られる」ような経験があるのではないかと思う。

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私は火と電気(動力)と金属刃という人間の制御を軽く超えてくるようなものが苦手な人間であるので一般的な「左利き」が全員そうだという訳ではないということを前置して。チェーンソーや丸ノコといった電動の機械刃は全て右利き用にデザインされており、他者を殺傷することが容易にできてしまうそうした危険な道具を、自分が信用しきれない右手に委ねていいのだろうか?という不安と葛藤がある。こうしたものは操作に慣熟すれば確かに問題はないのだろうが、他人の命を危険に晒してでも慣熟するという必要がない暮らしも日本社会には多い。

そうして生きてきた人間がひょんなことでそうしたものが使えた方が良いコミュニティに属すことがある。私の場合は災害支援に携わった時期があり、そうした災害支援ボランティアにおいては機械の刃のニーズが頻繁にあるのだ(水害で流れ着いた倒木を切り刻み小さくして運べるようにする等)。そういった機械が使えない人間にも当然、他にできること/やるべきことは数多くあるので、瞬間瞬間に問題になることはない。しかしその1機会、1機会ごとに、「左利き」であることを意識させられ、操作に慣熟するにも余分に周囲の協力というコストをかける「劣った」人間であると自分の内外から意識させられ「帰属を迫られる(ような気がしてしまう)」。そのコミュニティにおける活動選択に見えない制限をもたらすが、自助努力が足りない私の責任によるものであるとも言える。

当日、講師のおふたりにイベント後にお話できたときに、もう1事例、かなり私的なものを紹介したが、こちらでは省いて。ひとりひとりの人生に目を向けたとき、公的な領域(public)においてマイノリティとなる当事者性だけで、全ての「気づかず・知らず・みずからは傷つかずにすませられる」特権の話は完結しないのではないかと思う。

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公・共・私(public / common(community) / private)の各領域において「気づかず・知らず・みずからは傷つかずにすませられる」特権というものは存在するのではないだろうか。確かに、社会制度において克服した差別的な環境はある。「左利き」は劣ったものとして矯正され、忌み嫌われるような社会では確かになくなってきたのかもしれない。しかし、共的な領域(職業共同体や地域共同体、血縁共同体)においては未だ、「気づかず・知らず・みずからは傷つかずにすませられる」特権というものが残る部分もあるのではないか。私的な領域の人間関係において、常に机の左隅に座ることをマナーや思いやりとして自ずと強制されるような環境があるのではないか。

こうしたものは、ただ確かに「比べるものではないが」、生存を脅かされるようなものでも、尊厳を根こそぎ奪う差別に遭遇するリスクも現代日本社会においては低い。こうしたことを公的な領域の議論で語っていくことは、ともすれば「自分だって傷ついているんだ!」とマジョリティが「気づかず・知らず・みずからは傷つかずにすませられる」特権から目をそらす煙幕になってしまう加害的な側面を持つものだとも思う。自身の被害をどのように語るかは、自身の加害をどのように認識するかと同時に考えていかねばならないのかもしれない。

「気づかず・知らず・みずからは傷つかずにすませられる」特権に気付いたマジョリティがどうやってその後をより良く生きるか?を考えた時に、この特権は、公・共・私のどの領域における特権で、どのような人をどのように踏みにじっているのかを丁寧に見定める必要があると思っている。それはケインさんが「ハーフ(と呼ばれる人)」の問題提起をする一方、「まだマシ」な自分の振る舞いの加害性の可能性を点検しておられたように、被害的な側面を持つ人間が、同時に加害性を持つことは当然にあり得るからだ。

マイノリティ性や被害の経験は自身の加害の免罪符ではない。免罪符ではないが、それらはとても大切に扱われなければならないものでもある。加害は加害として、被害は被害として、当然に丁重に扱われなければならないということなのだと思う。「比べるものではないが」、XXの件についてマジョリティが「気づかず・知らず・みずからは傷つかずにすませられる」のはどの領域においてか?を見つめることで、その特権の議論をどの領域で重ねていくべきか?が見えてくるのではないか。私たちは各々、公的領域、共的領域、私的領域にそれぞれの立ち位置があり、自分のふるまいを点検し、半歩ずつでも、言葉を交わしていくしかないのかな。


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