『自分のために書く』を繰り返してきた人は、やがて『誰かのために書ける』人になる。
朝のウォーキングの最中、こちら記事で紹介されているラジオを聴いていました。
今日は、そこでの気づきを綴ります。
自分を表現すること...。
まず、自分のために書くこと。
それは、自分の内側と対峙し、自分にまとわりついた皮を剥ぐことなのかもしれない。
皮を脱いだ自分でないと、誰かの脱皮を促すきっかけになる文章は書けない。
誰かに響く文章なんて、とうてい書けない。
自分自身に不必要な皮を被ったまま、誰かの役に立つ話なんてできない。作り込んだ自分が語る言葉って、イヤな匂いがするから...。
一旦、そのまとった皮を脱ぐ作業、自分をもっと深く知る作業が、自分のために書くということなんだろう。
そして、自分が書いたものを、あらためて読む。
自分がいちばん初めの読者として。
ラジオに出てきた、『わたしは天命100%で生きてます』という人に限って、生きてねーじゃん!というくだりについても、とても共感できた。
キレイなままで語る言葉は、胡散臭い。
キラキラの奥の方に、プンプンとにおうものがある。
なによりも、ペラッとしすぎていて、読んでいてつまらないし、生々しさがない。重みもない。笑
かたや、『自分のためにとりあえず書く』と決めた人は、誰も説得しようとしていない。
誰かに影響を与えようとしていない。
『これは自分の生きた記録だ。』くらいの気持ちのときは、全く自信はないかもしれないけれど、肩の力が抜けていて、文章が上手くなくても、それが生々しくて、体温がある。それが好きだ。
末吉さんは、誰かの言葉を伝える仕事を通して『誰かのために書く』をし続けてきたから、かぶらざるを得なかった皮を、一旦、脱ぎたくなったんじゃないだろうか?
そこを経て、また、ご自身の言葉として誰かのために書くに戻ってきたのかな。
そして大野木さんは、起業し始めたころから、誰かのためにを意識しつつも、自分ビジネスと向き合いながら、ひたすら書き続けていた。もしかしたら『自分が被っている皮を脱ぐ』を先にしてきたのかもしれない。
雇われる仕事と違って、『自分で商売をする』って、自分が何を考えているかについて、きちんと向き合わざるを得ない。発信をする際も、自分と向き合いながら、誰かのために書く。
だから、今も、体温をのせて『誰かのために書く』をされているのではないだろうか?
きっと、誰かの心に響く、そしてしみこむように伝わっていく文章を書く人は、言葉に纏わせている不要な皮が薄いんだと思う。(伝われ!笑)
自分という誰かにむけて、いろんな言葉を紡いできたからこそ、それを書けるんだと思う。
わたしも、散々、自分のために書いてきた。
ブログを3つ、書いては辞めてを繰り返した。
mixiも、Facebookも、Instagramも、はじめは記録用だったし、思いを吐露する場だったし、誰かと心を繋ぐ場所だった。『自己満だね』と夫に言われたこともあった。笑
散々、自分という誰かのために書くことで、周りまわって、誰かのために書きたくなるのかもしれない。
そんなことを考えさせられた『勇気が出るラジオ』でした!
私も、ふわふわが静まって、やっと、シャバに戻る感覚がわかってきたかもしれない。
『シャバで生きてこそ』本当にそうだなぁ。
今回のnoteは、完全に『自分のために』書いています。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!