君が夏を走らせる
ろくに高校も行かず、夢中になれるものがなかった金髪少年の大田に突然降ってきたアルバイト。
それは先輩夫婦の赤ちゃん、鈴香の子守だった。
赤ちゃんの面倒など見たこともない大田が、泣き止まない、ごはんを食べない、小さな鈴香に振り回されながらも奮闘し、鈴香をはじめ身の周りの人物や親に対する愛情、そして自分自身への希望に気づいていく物語。
「君が夏を走らせる」を読んで。
僕には子供もいないし、赤ちゃんの面倒を見たこともない。
もちろん実際に赤ちゃんの面倒をみるのと、小説を読んでいるのとでは全く違うものではあるのだが、この本を読んでいくうちにだんだんと主人公の大田に感情移入していき、本当に鈴香の子守りをした気分だった。
一向に泣き止まない鈴香。
暴れる鈴香。
ご飯を食べない鈴香。
「ぶんぶー、ぶんぶー。」意味不明な言葉を発する鈴香。
でも時間が経つにつれ鈴香は少しずつ懐いてくるようになる。
「三日したら慣れるから」という入院中の鈴香の母親の言う通り、三日すると泣き方も落ち着いてくる。
鈴香の大好きなシール。
もっさりしたイヌのキャラクターが出てくるDVD。
おもちゃのフライパンに入れた米粒や、カラフルなマカロニ。
積み木、絵本。
あらゆる手段をつかって鈴香の笑顔を獲得していく。
印象的なのはおむつを替えるシーンだ。
実際やったことのある人なら気持ちは分かるものだが、僕はやったことがない。最初は間違いなく手こずるに違いない。今のうちにどこかで体験させてもらおうかな?
*
鈴香と公園デビューした金髪ピアスの少年は、自分に対する偏見の目が一切ない母親たちの対応に感動する。
いつも公園での主人公は子供なのだ。
どんな見た目の親であろうと会話はいつも子供の話。
それは子育てという行為が生む親たちの共感のコミュニティだった。
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一ヶ月の中で鈴香はどんどん成長していく。新しい言葉も覚えるし、落ち込んでいる大田を元気づけようと、
顔を隠して「ななーななーば!」
「いない、いない、ばあ!」で励まそうとさえしてくれるようになるのだ。
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主人公の大田にはコンプレックスがあった。
小中学校の頃から根っからの不良だった大田だが、中三の時に駅伝に夢中になり、丸刈りにして一生懸命走った。体の隅々にまで血が通ってくる体験をした大田は受験に向けて真面目に勉強もしたのだが、時は既に遅し。希望の高校に落ちてしまい、不良を引き受ける為だけのような高校にしか入れず、まただらけた生活に戻ってしまうのだった。
しかし一生懸命に頑張るという経験をした大田は、周りの本当にやる気のない不良とも馴染むこともできずに、孤独になる。
そして思うのだった。
好きだった「走る」ことにさえも、一生懸命にならなければよかった。
今頃何も考えずに周りとつるんで楽しくやれたのに。こんな惨めな思いをもったまま中途半端に高校生活を続けて生きた心地もしないと。
しかしその気持ちを打ち破ったのが鈴香だった。
一人では何もできない鈴香を守るために、喜ばせるために、得意だった料理を振る舞う大田。
鈴香の「ばんばってー」という応援のもと、昔の駅伝の後輩と死ぬ気で競争し、しっかりと勝利した大田。
*
鈴香の子守りは一ヶ月だけ。
母親と父親のもとに帰っていく鈴香。
大田の名残惜しさとは裏腹に、遊びながら片手間に手を振る鈴香。
「俺が二歳の記憶など全くないように、鈴香の中に俺のことなど全く残らない」
思い出されることのない時間。
だけど、確かに積み重ねていった時間。
それは思い出や記憶とは違うところに刻みこまれていくのだろうか。
「あと少し、もう少しこんなふうでいられたら、そう思える時間が過ごせて、本当によかった」
この小説にでてくるこれらの言葉はこの物語の本質を表現した部分だろう。
終わりに大田は勢いをつけて一歩足を踏み出すのだった。
空には太陽がまだ光を放っている。
レースはあちこちで続いているのだ。
よし、走るとすっか。
夏はまだ終わっていない。
この小説に出てくる登場人物はまだまだいるし、心動かされる場面も全然書ききれていない。
まだ子育てをしたことのない方や、元気がほしい方に「今」読んでほしい作品だ。