無個性主義
・おまえは何者か、と聞かれる。ほんとうは、何者でもないはずなのに。
・個性や特異というものは、尊重されるべきではなかった。それを尊重するということは、元来、ひとに自由を与えることだ。それは一般に、「なにかをするための自由」として解釈され、行使される。
しかし、今日の自由は「なにかをするための自由」ではなく、「なにかをしないための自由」となってしまった。労働、奉仕、義務、規則、忠誠、信仰、過去、他人、家族、恋人――。それらから逃げるためだけに、今日の自由は、個性は、行使されている。結局のところ、ひとは労働や奉仕が嫌なのだ。
・個性というものを、自由というものを、信じてはいけない。その思考にこそ、間違いがあるのではないだろうか。自由というものなど、所詮、奴隷の発想ではないか。今日の自由によって、ひとは決して幸福になりえない。
自由というようなものが、ひとたび人のこころを領すると、人は際限もなくその道を歩みはじめる。自由を内に求めれば、人は孤独になり、外に求めれば、特権階級への昇格を目指さざるをえない。だから自由とは奴隷の発想だというのだ。奴隷は、孤独であるか、特権の奪取を目論むか、常にそのふたつのうち、いづれかの道をえらぶ。
・ひとが自由という観念におもいつくのは、安定した勝利感のうちにおいてではない。個性というものを、他者よりも優れた長所と考えるのは、いわば近代の錯覚だ。常にひとは、自分がなにものかに欠けており、全体から排斥されているという自覚によって、はじめて自由や個性に想到するのだ。
このなにものかの欠如感が、直ちに安易に転化され、弱者の目には最高の美徳であるかのごとくに映りはじめるのだ。
・真の意味における自由とは、全体のなかにあって、適切な位置を占める能力のことだ。全体を否定する個性に、自由などない。すでにある全体を否定し、これを自分に都合の良いように組織しなおすことは、部分たる個人のよくなし得ることではない。たとえ頭数をそろえようと、それは不可能なことだ。だが、今日のひとびとは、それが容易であるかのごとくの錯覚を抱いている。マジョリティということばが流行する所以なのか。
わたしたちは、不可能なことを可能と錯覚することによって、なにものかが、もっと大切ななにものかが失われていることを気づかずにいるのではないだろうか。