き
・芸術においてなにが正しいのかというのは、芸術が終わってみないことにはわからない。ただここで問題になってくるのが、なにをもって芸術が終わったとするかを定義しなければならないということだ。 ・芸術・美術大学の絵画科には、油画専攻と日本画専攻のふたつが設けられていることがおおい。同じ絵画科といえども、入試形態から重きを置くその性格まで真逆なように思える。目指すものは、絵画として良いかどうかという同じな目標なはずなのに。 油画の友達と話していても、意見の食い違いがよく起こる。この
・ここ2週間、23時に帰宅して翌朝4時半には起きて東京へ行かなければいけない生活をしていて、正直かなり滅入ってしまっている。 疲労というものは、人の愉快や可能性を奪ってしまうもので、今、ぼくはまさにそれだ。すこしでもたのしみが奪われてしまえば簡単に、死ねよ、とか言ってしまうし。いまこの文章を、いつものようにだらだらと綴っていくこともできない。これを、忙しい自慢だ、とか言ってくるやつも、死ねな。 ・疲れると、文章をかけなくなってくる。だったらいつもは書けているのかとか聞かれて
・最近この題の絵画を制作した。構想自体は去年の冬から練っていたもので、じぶんとしても、これほど思慮を巡らせ身を削って制作したことはなかった。完全に予定調和に制作を遂行できたわけではないが、まあ末っ子の作品でもあるし、それなりに愛着の湧く作品になった。 調度良いし、ここでこの作品についてすこしばかり喋喋することにしたい。 ・まずこの作品の制作に至ったのは、一冊の本を読んだことがきっかけだった。お察しの方も多いと思うが、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで(英題:Never
・芸術というのは、なにか主題のようなものがなければ成り立たない気がしていた。芸術はしばしば大衆から白い目で見られることが多く、それには主題だけが、弁解というか、芸術をあっても良いものとする唯一のよすがに思えてしまうからだろう。そして逆に芸術家たちは主題のない作品に対して、それを軽視するような態度をとったりもする。 ・私の教わっている先生に、先生自身の作品について質問しても、案外するりといなされるようなことがよくある。実際それは、何かしら人類の心理を跨ぐ主題がその作品には隠さ
・自己肯定とはなにか。 昨今このことばが顕著に流行りだしてから、どうもその意味や作用を飲み込めずにいる。なんだか痛々しい自己の過大評価のようにみえてしまって、ときより虫唾が走る。 しきりに「自己肯定」をし、後にある何かしらの目的のために手段としてそれを用いているというよりも、ただ「自己肯定」が目的に、生きがいになっている言動も見られる。そんなの、わたしかわいいでしょ! と声をよりおおきく張り上げられた者勝ちのようでおぞましくて、じつはなんの解決にもなっていない。無知蒙昧の極
日本における天皇制というものに危機があるとするならば、それは天皇という存在の人間化、そしてそれによる非個人的性格の喪失だろう。 今日においてもなお天皇が崇拝されているのは、それは天皇個人に対する国民の個人的な人気にすぎない。「やっぱり御立派だった」「やはり人格者でいらっしゃる」そういう考えにすべて乗っかっている。しかしそれは天皇制とはなんら関係のないことだ。元来天皇という存在の起源は天照大御神という太陽神だ。そしてその末裔である天皇もまた現御神という神であり、神道の大司祭な
・人間の関心というものは、たえず人間にむけられてきた。そのもっとも端的なあらわれは性欲かと思われるが、性欲は実は人間への関心ではない。それは、破壊と繁殖というふたつの衝動のはざまから、世界の薄明を覗きみる行為なのだ。 性欲とは別にしても、人間はたえず人間への関心にひねもす飢えている。新聞・テレビ・インターネット、隅から隅まで人間のことばかり。たまに動物が出てきたとおもえど、口あたりよく擬人化される。そして人間の話にしても、人間のことばかり。たまに地震や津波や桜の花の満開が話題
・人間の関心というものは、たえず無機物にむけられてきた。ひとはこどもの頃から、折れ釘や外れたボタンやうつくしい石などを大切にしまいこむ。長じてのちは、金や株券や外国の革命などに関心をそそられる。金貨や宝石というのはとりわけ人間的な生活や体温の最も冷淡な対極物におけるにもかかわらず、そこに人間的臭気・色彩をくわえることに、人間は連綿と傾倒してきた。 人間の生活というものには、煩雑な事物の収集が不可欠なのだ。しかし酷なのが、人ひとりよりも、その当人が集積し、愛で、あるいは使役した
・現実感。現実感だけが、ぼくたち人間を瞬間瞬間の生命の甘美に浸らせる溶媒だ。 ぼくたちは、現実感だけで満足できる。つまりそれは、じぶんだけが異星から渡来した宇宙人だという現実感。または家出をし、初見の天井の下で一夜をすごすという現実感。虚偽と欺瞞に満ちたこの地球は愛すべき星であり、その自然は美しく、その女はやさしく、いろんな意味で拒絶しきれないという現実感。―――このほかに、どんな現実があるだろうか。 ・理想主義やロマン主義というのは、すばらしいものだ。それは、ぼくたち人間
・夜もふけて、もう床につこうかと飲みかけの水をすべて飲む。しかしまだ曖昧な渇きが口に残ってしまう。糸引くようにべたついた、不快な唾液の渇き。 これはただの一例にすぎないが、こういうように、人間の諸習慣が偶然にも、深いこころの底を映し出すようなことがある。そこには遠い星の運行の反映が見え、宇宙の余韻がただよっている。 ・だれもいない夕方のアトリエで、石膏像を見上げながらそれを素描する、そこから二,三町も離れた電信柱から突然墜死する若い電信工夫、同時にある家の庭の砂場では子供た
・「素描」について、いたずらに文章としての履歴をのこそうとは、ぼくはおもわない。「素描」というのは、絵画における至上命題かつ絶対条件であるのだろう。「素描」のない絵画は成立しないし、だからといって、いつかそれを完全に会得できるわけでもない、そういうものだとおもう。 ・絵を習いはじめてから、「素描」ということばがすきになった。禅の精神にみられるような、明鏡止水な悠然の行為。「デッサン」というよりも、「素描」と言いたくなってしまう。でも言いすぎるともったいなく感じてしまうので、
・おまえは何者か、と聞かれる。ほんとうは、何者でもないはずなのに。 ・個性や特異というものは、尊重されるべきではなかった。それを尊重するということは、元来、ひとに自由を与えることだ。それは一般に、「なにかをするための自由」として解釈され、行使される。 しかし、今日の自由は「なにかをするための自由」ではなく、「なにかをしないための自由」となってしまった。労働、奉仕、義務、規則、忠誠、信仰、過去、他人、家族、恋人――。それらから逃げるためだけに、今日の自由は、個性は、行使されて
・文章のなかで、漢字を敢えてひらがなにすることを、「ひらく」という。以前この「ひらく」ことを知ったとき、ぼくはそれを意識的にしてきたようにおもえた。文章としての見た目の緩急だとか、かわいらしい印象だとか、もちろんそういうことも理由のひとつなのだけれど、文字・言語という非感覚の限りある媒介の母体に対する、ある種のコンプレックスがあったのではないかと思う。有限であるはずの言葉が、ふとした瞬間に、見晴かす宇宙の悠久を垣間みせることがある。だからこそ、はっきりとした輪郭ではなく、ただ
・生活とは、わびしさを堪えることだ。 ・リルケが言っていたが、現代人はドラマチックな死ができなくなってしまった。ある病院の一室で、ひとつの細胞のなかの、蜂が死ぬように死んでいく。堕落も殉教も、すべてひとの威厳であって、侵されざる権利であったはずなのに、文明はそれをゆるさなかった。それは沈黙がべつの分子と結びつけば、暴力や侵害につながるからだろうか。天文学的な例外も無いものとされて、自ら魂の空白状態へと落ち込んでゆくのだった。 ・ぼくたちは現実世界のさまざまな因果のさなかを
・雨ということばがある。でも、雨について書かれた紙が濡れていないのは変だ。それは雨ということばが嘘だという確証にほかならない。雨も、空も、野も、川も、すべて嘘なのか。ぼくはうそばかりかいていました。だからこんなにも、ひらがながおちつくのか。 「太陽」ということば。「恋」ということば。「世界」ということば。 なんだかヤバいものが、ことばとしてわかられている。わかりきることなんてできるはずないのに、ぼくたちは粗い大きな網の目からそれを見ている。ほんとうは、わけのわからないものと