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日本画とプロレスとそれから

・日本画というムーブメントが消滅した最大の誤謬は、思想がなかったということだ。新たな思想の出ない芸術運動は必ず消滅する。日本画という絵画は既に自明で揺らぐことのない牙城であると信じる、あるひとつの作劇のような姿勢があったと思う。
ここでひとつ断っておきたいのは、それが慢心であるということではなくて、その自明性にこそ日本画というムーブメントのアイデンティティがあったということだ。日本画が作劇的だと言ったからといって、日本画を否定することにも肯定することにもならない。当時の日本画家たちだって、教育者たちだって、その自明性を百も承知でムーブメントを押し進めていったのだ。そしてその自明性に触れなかったのは、それが聖域であり、かつ日本画の日本画たる所以であり、マスクだったからだ。

・プロレスというスポーツが、必然的に作られた作劇であるということは周知の事実だ。でもどんなレスラーも観客も、それを壊したりはしない。それは、その構造を破壊あるいは逸脱することで自らの存在の裏付けを失うことになるからだ。プロレスの作劇性というのは、アイデンティティとかそういうレベルよりもずっと上の、もっとプリミティブでセイクリッドな根拠なのだ。その作劇性を互いに察知したうえでプロレスを楽しむということが、高位の至福であると皆が信じている、だからこそこの構造は成り立っているのだ。

・戦争に負け、昭和という時代が終わり、対項を失った日本画は、しだいにその所以の裏付けを失っていった。今日の絵画にもはや洋画も日本画もない。ただ絵画以外の芸術の対としてだけの現代絵画があるだけだ。
会田誠が「『日本画』というジャンルは昭和天皇崩御と同時に自ら消滅を宣言すべきだった」と言っていたが、ぼくもこれに同意する。昭和天皇とまでは言わずとも、平山郁夫の死によって、日本画というムーブメントは精神的にも体系的にも終了したと思う。その結果、かつての愛国や熱烈なナショナリズムという文脈は過去のものになり、ただ「岩絵具がきれいだね」という、それ以上でも以下でもなくなってしまったのだ。
これでいいのだとはおもう。どうしようもなかったのだと。ただ、終わらせるなら終わらせて、復興するなら復興しなければ勿体ないなという気持ちもある。それはぼくが大前提として日本画が好きだからだ。

・この「日本画とプロレス」という二項の関連はとても面白いモチーフであるので、これからもコンスタントに追究していきたい。

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