性的不能の男 5
なだらかな丘と糸杉が続くトスカーナ地方独特の風景が、朝靄の中に浮かび上がる。
男は裸のままシーツに包まり、微かに鼾をかいていた。
彼と出会ったのは一か月前。彼の親族の持ち家であるこの素朴な一軒家で行われた小さなフェスタだった。
夕暮れ時になって、二十人ほどのイタリア人が各々に食べ物を手に集まった。
ワインやチーズ、パスタがテーブルに並ぶ。
日本人は私だけだった。
コロコロと転がるようなイタリア語が、私にも心地良くなっていた頃だ。
誰かがこの家で作ったのであろう、出来立てのパスタを口に運ぶ。
羊乳チーズの濃厚さが、トマトソースにコクを与えていた。
テーブルの下で、私の脚に何かが触れる。
前に座ってワインを飲む男の目が私に向けられていた。
私のふくらはぎ辺りをなぞるように男の靴がゆらゆらと動く。
映画でもあるまいし、つまらないことをする男がいるものだと、私は気付かないふりをしてパスタに専念していた。
前の彼とはつい最近別れたばかり。
訣別の理由は、同棲、そして結婚だった。
私は結婚という青写真を持ち合わせていなかったし、ましてや結婚が前提である同棲は好みではない。
仕事があり、住む部屋があり、友人があり、お互いに好きに暮らせばいいと私は思っていた。
子供が欲しいというのであれば話は別だが、私には子供を産みたい、育てたいという思いが全くなかった。自分の育った環境を思えば、こんな血は根絶やしにしたいほどだ。血縁なども信用していなかった。
男性といい加減な付き合いをするつもりはないし、身体の関係を軽視しているわけでもない。
私は誰かにとって生きていく中で必要不可欠な存在でありたかった。
夜はまだ若い。夏の終わりのトスカーナの風が心地良かった。
「ねえ、日本て地震が多いんでしょ?
怖くない?」
そんな質問をしてきたイタリア人女性と話始める。
聞けば、東洋医学の医師だという。
大きなお腹の中には三人目の子供がいるらしい。
「結婚はしてるの?」
私は訊いてみた。
「クリスチャンだから離婚はなかなか難しいんだけど、この子を妊娠してからは別居していて、実質離婚よ。」
「理由を聞かせてくれるかしら?」
「愛せなくなった、それだけよ。」
子供の為だけに結婚を維持して、日々その苛立ちや恨み辛みで子供に八つ当たりするよりずっといい。
愛だけで結婚生活を送ることはできないけれど、愛せない、そして嫌いにすらなってしまっている相手と生活を共にするのは不健全だ。
向かいに座る男の、私を舐めるような視線が煩わしくなっていく。
この出会いが、後の陰惨な出来事に繋がるなどとは思ってもみなかった。
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