最愛の母が残してくれたもの。
○はじめに
2023年6月、姉から連絡が来ました。
『母にガンが見つかった。』
『そして余命は残り1年ほどである。』と
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2024年11月8日、余命宣告から1年と半年ほどが経ち、母は旅立ちました。
母は昔から我慢強い性格で、弱音を吐かず、苦しんでいるところを見せない人でした。
そんな母が死の間際、人目も気にせず苦しんでいた姿が今でも鮮明に思い返せます。
母が1人で抱えてきた苦しみが如何に大きなものであったのか、そのときになってようやく気がつきました。
もっと早くああしていれば、こうしていればと、後悔の念は今なお増しています。
あなたにも、大切な人から同様の連絡が来たら、何を思い、どう生きますか?
余命宣告から、母が亡くなるまで、僕が個人的に感じたことや、そこから得た死生観について、備忘録としてnoteにまとめることにしました。
長くなるとは思いますが、興味があれば、最後まで一読していただければと思います。
1人でも多くの方が、自分の人生に向き合えて、素敵な人生になるよう願いを込めて。
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○2023年6月 - 余命宣告
母は真面目な性格で、数年前から年に1度、ガンのスクリーニング検査(定期検診)に通っていました。
そんな母はステージ4の乳がんであると診断されました。
突然の検査結果に、「毎年検査をしていたのに、突然ステージ4?」と唖然としました。
悪性腫瘍は、その進行度に合わせてステージ0~4に分けられます。
数字が大きいほど重症度が高く、ステージ4はかなり末期の状態です。
具体的に説明すると、原発巣である乳がんから、他の臓器に転移してしまっているのがステージ4です。
自分自身がガンを見つける側の仕事(放射線技師)をしていたのでよく知っていますが、検査をする放射線技師、及びその検査画像から病気を見つけ出す放射線科医、それぞれの知識量や技量によって、ガンが見つかるか否かは大きく左右されてしまいます。
毎年検査をしていたのに、突然末期ガンであると診断されたことを聞き、はじめは病院側に対して大きな怒りを覚えました。
それと同時に、母の余命を知らされてから残された時間の中で、どれだけのことをしてあげられるだろうと焦りを感じました。
しかし、そんな焦りがあったにも関わらず、母が亡き今も後悔の念が残っているということは、もっとしてあげられたことがあったのだということです。
焦りに反して、最大限できることをしてあげられなかったのは、母が亡くなるということに対してどこか現実味を感じられていなかったからだと思います。
人は、死を受け止めるという行為に対して、とてつもない精神的負荷がかかり、その耐え難い負荷に対する防衛本能が、死の現実味を遠ざけているのかもしれません。
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○2023年 7月 - お金よりも大切なもの
母の余命を知ってすぐ、「家族旅行に行こう。」と提案しました。
自分から企画し、旅行に連れて行ってあげられたのはこれが最初で最後でした。
一棟貸切の有馬温泉旅行は、人生で1番高価な買い物でした。
普段ケチな方だと自負している僕ですが、お金に変えられない大切なものを、【本当の意味で】見つけられた気がしました。
そんな温泉旅行中、母から子ども3人(僕と姉2人)に対して、母の身辺整理などを含めた終活についての意思が伝えられました。
会話の節々から、家族への愛情の深さ、そして、どこまでも気を遣い過ぎる母の性格が見え隠れしていました。
こんな時に気を遣わなくてもいいのにと、心の中で何度も考えていました。
もちろん気を遣わなくていいよ、もっと甘えていいよと伝えましたが、それでも母は気を遣うことをやめませんでした。
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○2023年 12月 - 母の唯一の願い
温泉旅行から月日は流れ、12月。
母と共に年を越せた最後の年末になってしまいました。
心の中で薄々最後になるかなと思い、大晦日だけでなく、その少し前から帰省することにしました。
12月30日、泊まる予定の日の夜に用事ができてしまい、やはり泊まることは出来ないかもしれないと伝えると、母から「せっかくなら居て欲しい。」と言われました。
この話だけを聞くと、「当然だろう。」と思われるかと思います。
しかし、僕が産まれてから26年間、母がこうやって甘えてくることはありませんでした。
僕は用事をキャンセルし、母と共に過ごしました。
家族にさえも気を遣い続け、ずっと甘えることが下手くそだった母が、どうしても叶えたかった1番大きな願いは、
【ただ一緒に居ること】
だったのです。
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○2024年10月 - 最後の会話
時は流れ、母が余命宣告を受けてから2度目の秋が訪れました。
年末からこれまでも月に何度か実家に帰るようにはしていましたが、仕事が忙しい僕の身を案じてか、年末のような母からのお願いはありませんでした。
そんな母から、会いにきてほしいと連絡があり、地元で食事をする機会がありました。
仕事のことや日常のこと、飼っている猫の話など、たわいも無い話をしました。
また次の機会に色々と話そうと思いながら僕は仕事に向かいました。
何気なく帰省した1日でしたが、母と会話ができる最後の日になると、その時の僕は知りませんでした。
それから数日後、さらに容態が悪化したことを知り、親族みんなでの旅行を姉弟で計画しました。
母は、祖父母を有馬温泉に連れて行ってあげたいという願いがあったようで、その願いを叶えてあげたいと思い計画したものでもありました。
母が何度も宿泊先の動画やホームページを見ていたことを姉から聞かされ、とても楽しみにしているのだなと感じました。
しかし、旅行が企画されたあと母は、「楽しみな反面、悪化して旅行に行けないのではないか。年内持つか分からない。自分の身体だから分かる。」と、珍しく弱音を吐いていたとも聞いていました。
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○2024年10月29日 - 遅すぎた後悔
程なくして、容態が想定よりもかなり悪化していると姉から連絡があり、急いで帰省しました。
そこには、ベッドに横になり、身動きも取れない母の姿がありました。
今日が命日になるんじゃないかと悟らせるような容態で、意識は朦朧としており、話しかけてもうなだれるように「うん。」という返答しかできない状態でした。
こうなるなら、もっとたくさん会いに行き、もっとたくさん感謝も愛も伝えればよかったなと、酷く後悔を抱きながらその日の夜を過ごしたのを覚えています。
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○2024年10月末~11月 - 最後の2週間
最後まで母の傍で看取ろうと決め、バーを起業して依頼はじめて半月以上の長期休暇を取りました。
この長期休暇を許してくれた、共同経営者の林と、その間組織を守ってくれたキャスト一同には、とても大きな借りができてしまいました。
彼らが与えてくれた2週間の猶予は、母の死を迎え入れるために必要な、とても充実した時間でした。
この2週間、母のケアだけでなく姪っ子甥っ子の育児もあり、忙しくバタバタとしていましたが、子どもの無邪気さに助けられながら過ごすことができました。
部分的にではありますが、育児の大変さを痛感しつつ、その育児をこなしながら家事も仕事も両立させていた母の偉大さを身に染みて感じました。
さらに驚いたことに、母の身辺整理の一環で通帳を確認していると、自身が稼いだお金は全て子どものために使っており、自身には1円足りとも使っていなかった事実が発覚しました。
その事実を知った時、想像を絶する愛の大きさを感じると共に、もっと早く稼げるようになって、もっと早く親孝行をすべきだったと、またしても悔いることになりました。
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○2024年11月8日 - 最期の日
早朝に目覚めた僕は、いつものように母の寝室へと足を運びました。
そこには暗い表情の姉が先に起きており、心の中で全てを察しました。
恐る恐るベッドに近づき、母の顔を伺いました。
そこには、昨日までのような力んだ表情ではなく、力の抜けた母がいました。
母の顔はどこか穏やかで、心做しか笑顔のようにも見えました。
体温も感じられない母の身体をさすりながら、一言「お疲れ様。」と告げ、やるべき事をしようという使命感にかられました。
ここでしっかりしないと、何もできなくなってしまうのだろうと、直感で感じ取ったのかもしれません。
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○2024年11月9日 - 母が愛した人
早朝、葬儀に向けて母の遺体が葬儀屋さんに引き取られました。
その日は父も来ており、父と姉と僕とで母を見送りました。
母を見送ったあと、久しぶりに父と深く話をしました。
父から見た母の人物像や、今まであまり聞くことのなかった2人の人生について聞くことができました。
疎遠というほどではないですが、父とは深く話す機会がありませんでした。
子どもから母親へ離婚を促していた時期もあるような、不思議な関係性でした。(今でこそ、母が離婚を選んでいなくて良かったなと感じています。)
父は自由に生きている人で、その分家庭にも迷惑をかける人だったので、よく姉や母親と揉めていました。
自由奔放に生きてしまう僕の性格は、きっと父親譲りなのだと思います。
父と母は、中学校からの付き合いだそうで、何度か別れることもありつつ、最終的には結婚に至ったようです。
2人は真逆の性格で、奔放な父が持ち合わせていない真面目さと几帳面さを、全て母が担っている関係性でした。
生前の母にも、何故父を選んだのか聞いたことがありましたが、その度にはぐらかされていたことを覚えています。
今となっては知る術もありませんが、きっと母も父に恋をし、言語化できない恋愛感情を抱いていたのだと思います。
(じゃないと、あそこまで変な人間と一緒にはならないでしょう笑)
そんな母に選ばれた父の口からは、人生の本質的な内容ばかりが飛び出してきました。
それは、死んだら何も残らないということ。
だからこそ生きたいように生きるべきだということ。
父は仏教を重んじていたので、そんな父の口からは霊魂だなんだとスピリチュアルな内容が出てくるのだと思っていました。
結果は真逆で、死んだらそれでおしまいなんだと、僕が考える死生観と全く同じ思想でした。
(あくまで個人的価値観なので、宗教や個人の信じるものを否定する訳ではありません。)
もちろん、自由に生きる父の分まで気を遣ってくれていた、母の存在ありきで成り立っていたとは思います。
そこは父も理解しており、母への感謝もありながら、反省点はたくさんあったと語っていました。
父のことも少し理解ができ、少しだけですが尊敬も生まれた良い機会でした。
母がこの人を選んだ理由が、少しばかり分かったような気がしました。
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○ 2024年11月10日 - お別れの日
この日、葬儀が執り行われました。
亡くなってから葬儀までは、色々な手続きなどが慌ただしく行われ、哀しみに向き合う暇もありませんでした。
葬儀は母の希望通り、母が選んだ近しい親族だけで行われました。
母は生前、メンズグループのBE:FIRSTが好きで、余命宣告されてからの1年半も姉とともにたくさんのライブに通っていました。
僕もサマーソニックに同行し、炎天下の中車椅子を押しながら万博公園を駆け回りました。
ライブが始まると、心身ともに苦しいはずの母が目を輝かせながら立って見ていました。
僕がアイドルオタクになったのは、母の遺伝なのかと感じたことを覚えています。
葬儀の時には、そんな大好きなBE:FIRSTの曲を流して欲しいと母から伝えられていたので、リクエスト通りの曲が流れていました。
そのおかげもあってか、葬儀会場では曲を聴きながら踊る姪っ子、触発されて和気あいあいとする姉たちや僕の姿があり、明るく見送ることができました。
母はここまで見越していたのか分かりませんが、最後まで母に支えられているなと感じました。
その後火葬場に向かい、遺骨となった母と対面しました。
これで本当のお別れなんだなと感じるとともに、未だに実感の湧かない不思議な感覚に包まれていました。
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○母が残してくれたもの
少し触れたように、僕は死んだら全ておわりで、何も残らないという価値観で生きています。
そんな僕ですが、死んでも残せるものがあると知りました。
それは、お金も物も何も残らないけれど、
【 母が与えてくれた愛と、そこから伝わった母の偉大な意思は、子である僕や姉、そしてさらにその子どもへと受け継ぐことができる。 】
ということです。
僕が大好きな曲に、藤井風さんの『帰ろう』という曲があります。
死を題材にしたこの曲の歌詞には、
「与えられるものこそ、与えられたもの。」
という一節があります。
余命宣告を知らされてから、母に与えたいと思った想いの総量は、まさしく母親から与えられた愛の大きさを表していたのだと思います。
愛するものには自己犠牲もいとわず、全てを捧げて愛を与えてくれた母の意思は僕が受け継ぎ、人生において最も大切なこの価値観を、家族や知人、そしてこれから出会うすべての人に伝えていくことこそが僕の使命であり、母から残されたものであると感じました。
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○おわりに
長くなりましたが、以上が母との別れの全貌になります。
本当はここに書けないような感情もたくさんありましたが、気になる方はぜひバーに遊びに来ていただいて直接お聞きください。
(営業みたいになってしまった笑)
この1ヶ月間、いとこの出産、高校の親友の結婚式、そして母の死。
人生の始まりから終わりまでを凝縮して体感する期間となりました。
辛いことではあるけれど、人として僕が成長できた素敵な1ヶ月になりました。
最後に、お世話になった方々へ
長くお休みをいただくことになってしまい、バーに遊びに来てくれる予定があったり、会いたいけど我慢すると言ってくれたお客様。
色々気遣ってくれて嬉しかったですが、復活したら気兼ねなく、今まで通り遊びに来てください。
※そして高額シャンパンで復帰祝いしていただけるとさらに嬉しいです。(営業)
………
長期休暇の間、組織を支えてくれたキャストのみんな。
連絡したいことや相談したいことがあるのに、蔑ろにしてしまってごめんなさい。
そして、いない間もしっかりと勤めてくれてありがとう。
組織に属してくれるみんなも、私生活で大切なことがあれば組織のことは一旦忘れて、人生において大切な時間に費やしてもらいたいなと改めて思いました。
有事の際には、自身の人生に集中していつでも休めるよう、安心できる組織を作り続けたいないと考えることができました。
みんなにとっての1つのコミュニティである職場をより良いものにしていきたいので、これからも協力して、一緒に組織を成長させられたらと思います。ただし、高みを目指すためにも多少のブラックさは許してください笑
………
そして、1番気を遣ってくれたり、僕の分まで業務をこなしてくれた林。
林のお節介すぎる一面には清々するときもあるけれど、今回ばかりはそんな優しさにたくさん救われました。
逆の立場の時には、してくれた以上に支えるので、これからも宜しくお願いします。
一緒に共同経営ができて本当によかった。
ありがとう。
………
人は常に死に向かっています。
何気なくスマホを見ていたり、だらだらと過ごしている今も。
当たり前のことなのに、意識し続けるのは本当に難しいことです。
人間の最大の防衛本能が働いているのかもしれません。
死は恐ろしいものですが、死を意識しなければ本当の意味での幸せや満足感は手に入れられないのが人間なんだと知りました。
僕はそんな死を受け入れ、母から受け継いだ意思を継承し、人に与え続ける人生を生きようと思います。
長々と稚拙な文章にはなってしまいましたが、ここまで読んでくださったあなたに感謝します。
帰るときには何も持っていけない。
関わる人みんなが、全て与えて帰れる人生になりますように。
2024/11/10
山内 裕登
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○僕の死生観の参考文献
・映画 - アバウトタイム
・書籍 - Die with ZERO
・音楽 - 藤井風・帰ろう