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生の倦怠





私が何故虚無の繰り返しから抜け出せないのかと以前は深く考えたこともありました。


以前Youtubeで見た動画の中で、三島由紀夫がこんな事を話していました。
彼は、せい倦怠けんたいと言う言葉を使って、人は自分の為だけに生きていると飽きてしまう。
…昔の人は大義たいぎの中で生きる事で生と死のどちらにも生きる意味を見出していた。(私は大義などと大仰なものでなくても良いと感じています。献身的な気持ちや行いなのでしょう。)
…自分の中に自分を超える何か、そういったものが無ければ、生きる事すら無意味に感じてしまう心理状態はある。と話し、当時その言葉にとても共感したことを思い出します。




彼は少々ドラマチックな生(死)を切望しすぎた一面があるとは思いますが、それは彼の美学びがくからだけでは無く、戦時中の緊迫した生命観や、生き残った彼が戦後の日本社会を生きる中で、今の私たちには分からない感覚、戦時を生きた彼らにはむしろ当たり前にさえなってしまっていた、死(生)が隣接する緊張感を求めていたのかもしれません。

これは一種の依存いそん状態です。
生死を身近に感じて過ごすことが常態化していたことで、戦後の安定へと向かう社会の中に退屈さを感じてしまい、無意識のうちに脳が刺激を求めてしまっているのです。


イラク戦争時のアメリカ軍爆弾処理班を描いた映画「ハート・ロッカー」などもそういった一面を描いています。
因みにこの映画の主人公を演じるジェレミー・レナーという俳優さんはとてもかっこよくて私は好きです。
彼が主演する「ウインド・リバー」という映画も機会があれば是非見てほしい作品です。







私はこれまでに、

思考依存症
どうでもいいことをやる

という過去の記事の中でも触れておりますが、脳は一度刺激を覚えてしまうと、その刺激が無くなるとまたそれを求めてしまいます。
離脱症状りだつしょうじょうが起こるのです。
離脱症状は薬物にだけ起こるものではありません。
薬物はその程度がはなはだしいというだけなのです。
私たちが日常においても、退屈だな、なんだか虚しいなと感じているとき、それは脳が何らかの刺激を求めている離脱症状なのです。
当たり前で平穏な日常に満足できなくなるのです。
それは、友達、恋人、家族、その他人間関係から、ニコチン、アルコール、カフェイン、SNS、ゲーム、ギャンブル、違法薬物、自傷行為(リスカ、ODなど)、SEX、スマホ、思考、と何でもありです。

ここには際立ったものを挙げているだけで、この世界の全ての現象は、私たちがいつどんな時にでも依存するだけの価値を持って存在しているのです。
果ては生死に対する依存です。
脳にとって死と隣接りんせつする事ほど刺激になる事はありません。
ある意味恐ろしい事ですが、脳はどのような刺激であっても、与えられ続ける事でその状態に慣れてしまい、その刺激がなくなると、また刺激を求めるよう強く働きかけるのです。

子供の頃に比べて大人なってからの方が、より退屈を感じるという事は、大人になるまでの方が刺激的であったという事なのでしょう。
逆に大人になってからの方が楽しいという人は、子供の頃は刺激の少ない退屈な日々だったのかもしれません。



私は今現在、自分の事を優先的に過ごす日々を送り続けています。
自分の為にと、日常生活、食事、運動、趣味(特にありませんが)、など様々な事と丁寧に向き合っていても必ずどこかで虚しくなり、全てをやめてしまいたくなるのです。
何をしていても、いつまでたっても、私が私を満たしてやる事は出来ないでいるのです。
それどこか、自分の為だけに生きることを続けていると、とても退屈さを感じるのです。

「生の倦怠」

私の脳は過去に経験した様々な出来事を通して得た刺激を覚えているのでしょう。
そして、今の私にもっと刺激をくれと迫ってくるのです。
それは少なくとも私の場合には、自分一人で完結させられる事では物足りないという事なのかもしれません。
物足りなさは、むなしさとして現れて、自分自身に何かを気づかせようとしているのではないでしょうか。
ただ、一方で人間社会での生き辛さも大きく感じることには変わりません。
多くの人と関わり、多様な関係性のなかで生きていると、そこにはまた大きなストレスや満たされない自分を感じ、現状の自分を嘆くことになるのでしょう。
おそらく誰もがこの様なジレンマを解消出来ずに生きているのではないかと思います。


私たちの理想的な精神状態が「せい」 あるいは、
」の様な状態に対して、肉体的な生命活動は死の瞬間まで「どう」であり、変化し続ける以上、これを維持し尚且つ理想的な精神状態を獲得する方法はお釈迦しゃか様に伺う他、私は知りません。
つまりは涅槃ねはんたっするという事です。
しかし私たちが自我じがを認識し、生命活動という現象である以上、本当の意味での理想的な状態へと達する事はできない仕様しようになっているのです。
(本質的には自我を認識していようとも、常に涅槃その状態であると言えます。どのような現象も全てはさとり状態であるのです。無限の観察者である意識も無限の一部という事です。ですがややこしい事はここでは省きます。またどこかで書きます。)
したがって、自我を持って一般的な現代社会で生きている私たちに与えられる幸福感とは、活動的な生活から生じる刹那せつな的な精神的幸福に触れることなのではないかと思います。
その為には自分の為というベクトルよりは、自分以外の何かを媒体とする事で、結果的にはより持続的に自分に幸福感を与えられるのかもしれません。


虚無が顔を出していると思ったとき、私たちは自分をいかにするべきかと悩み、苦しむ。
そして、自分に何を与えるべきかと考えます。
しかし虚無を感じたその時ほど、私たちは誰かや何かのために行動し、与えるという事を通して与えらているという事が、虚無からなるべく距離をとり続け、私たちが幸せと呼んでいる人生を受け取るために必要な認識なのかもしれません。



>>諦観



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