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生まれ変わるならキーボードのH

1年半くらい前、「ブラッシュアップライフ」というドラマがあった。
33歳で交通事故で死んでしまったヒロインが、あの世の案内所で次に生まれ変わる命を聞いたところ「オオアリクイ」だと言われる。
しかし、それがイヤなら、もう一度33年を生き直すことができるという。
その33年を「徳を積んで」生きたならば、次も「人間」になれるかもしれないと思ったヒロインは、生き直しの道を選ぶ。

いくつかの「善行」を積み、できる限りで他人の選択間違いもうまく導き、降りかかる不運も排除し、最初の人生で死んだ事故も回避できて、ようやく追いつき、これからは未知の人生だと揚揚としていたら、今度は別のシチュエーションでまた事故に遭って死んでしまった。
案内所で、今度はきっと「人間」だろうと思って尋ねると、次は「ニジョウサバ」だという。

「人間になるっていうのは、そんなに難しいことなんでしょうか?」
「いえ、人間というよりも、希望している生命に生まれ変わるためにはそれなりの徳が必要ということになりますね。」
「希望している生命?」
「そもそも人間が一番というのは、あくまでも人間の価値観でしかなくて、生まれ変わる生命に特に序列はないんですね。」
「そうなんですか。」
「たとえばカブトムシだったかたのほとんどは、次もカブトムシを希望されますし、カラスだったかたのほとんどは次もカラスを希望されるんですね。」
「・・・ゴキブリもですか?」
「当然です。そのためには、多くの徳を積んでおく必要があるということです。」

ドラマ「ブラッシュアップライフ」バカリズム

ここのやり取りが妙に心に残った。
人間は「人間が一番」だという価値観に基づいてすべてを判断し選択し、それらに一喜一憂しているけれど、カブトムシやカラスやゴキブリの価値観ではそうではないのだ。
「次は人間」と告げられたオオアリクイは落胆し、オオアリクイの人生(オオアリクイ生)を生き直すことを希望しているのかもしれない。
命や意識・感覚のあるうちに、別の生き物の人生を経験することはできないのだから。

人に限らず、すべての生き物は「これまで生きてきたこと」を肯定しないではいられないのだと思う。
もし、案内所で「次は人間か鳥」と選択ができるとしたら、生きていたころは「大空を自由に飛び回れる鳥になりたい」と言っていた人も「人間」を選ぶのではないだろうか。
心の底でみんな「人間が一番」と思っているのではないか。

だから、人間のために牛や豚や鶏や鯖や鮪の命が失われるのは仕方がないと思っている。
私はできないが、ゴキブリが出たら誰かに追い払うかまたは「殺して」と頼む。
だって人間を不快にするものだから、仕方がないじゃないの、と。

私の小学校生活は昭和で、給食では「鯨の竜田揚げ」が定番だった。
家でも、よく作ったが、いつからかスーパーに並ぶ回数が減り、庶民が買える値段ではなくなってしまった。
「捕鯨禁止」の国が増え、「鯨を食べるなんて残酷」というイメージが高まった。
「鯨肉を食べなくても、ほかに食べるものはあるじゃないか」という声もあった。

鯨はダメで、牛はいいの?
鯨を食べるのは残酷で、豚は残酷じゃないの?
すると「鯨は賢いから」と答える声があったけれど、私はこれに大いに反発した。

賢い=尊いなのか。
知能が生きる価値を決めるのか?
それは、もしかしたら同じ人間同士のあいだにも当てはめようとする動きにならないか。

障害者施設を襲撃した事件があった。
あれから人々の意識は大きく変わったのだろうか?
障害者の「自立」ばかりを打ち出して、そこまで行きつかない人たちの支援はおざなりになっていないのか。
少なくとも、今の政府からは、高齢者や病人や障害者など経済力の低い人たちは見捨てられているように感じる。

何がダメで何が良くて、どこからが残酷で、どこまでが仕方のないことなのか。
その線引きは難しい。
しかし、線引きをすること自体が残酷なことで、その残酷さを自覚しているのといないのとでは、同じ行為をするのでも違うのではないか。

フランスの市場では、店先にウサギが丸ごと?吊るされて売られていた。
友人の郷では、庭で鶏を飼っていて、客人があるとその家の主婦が「シメて」鶏料理を振る舞う。
残酷と思う一方で、料理を堪能する。
この矛盾と葛藤こそが、人間が「人間こそ一番」と評価できるところではないかと思う。
私は人間だからそう思えるのかもしれないが。

割り切っている人がとても苦手だ。
命を食べ物としかとらえない、命を経済力としてしか見ない、あるいは残酷だという感覚ですべての食文化をも否定する。
そういう矛盾も葛藤もないスパっとした割り切り方が苦手。
「シンプルさ」を自慢する人には、怖くて近づけない。

私は、同じ経緯を繰り返すのだとしたら、もう生き直す気になれない。
介護や夜逃げやイジメをもう一度経験するくらいなら、次のチャンスは進んで棒に振る。
家族は好きだったが、そもそも、貧乏な家に生まれるのはもう嫌だ。
これは、生き直したとしても、私の努力では回避しきれぬ。

生まれ変わるなら何になりたいかという問いに対して、長い間「キーボードのH」と答えてきた。
命のないもの、命を継がないもの、命を産まなくて済むものになりたいと。
「跡継ぎ」を産めなかった責めと、家族だから当然とされる介護に疲れていた頃の話。

「H」はフランス語でアッシュ。
あっても発音しない。
ヘルメスがエルメスになる。
名探偵ポアロには、英国で「ハーキュリー」と発音された際に「エルキュールです」と訂正する場面もある。

あるのにないことになり、ないけどある。
なくてはその言葉自体が成立しない。
そういう「H(アッシュ)」。

それでも。
「もう死んでしまいたい」とは思ったことはない。
悪い人生だとも、地獄だったとも、すこしも思っていない。


読んでいただきありがとうございますm(__)m