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廃墟の車椅子

昨日行った町を、かつてはくまなく歩いた。
城址公園や武家屋敷、そして古寺。
一番近くでも10年以上前だが、そのときはもうすこし町に賑わいがあったように思う。

沿道の店がほぼ閉じていた。
水曜日だったので定休にしている店もあるだろうが(水曜は「儲け話が水に流れる」という験を担いで)、明らかに廃業に見えるところも多い。
車通りは多いが、歩いている人は滅法少ない。

観光客が押し寄せる名所は好きじゃない。
だから、私にとって「人の少なさ」は歓迎すべきもの。
けれども、それはそこに暮らす人の息吹があってこそ。
そのバランスが大事だと思う。

どの政治家もこぞって「地方創生」と言う。
地方創生ってなんなのか。
お金を配ればできるのか。
各政権、各党がどんな手立てをもってそれを成そうというのか、いまいちよくわからない。

仲介業者が中抜きで儲けているふるさと納税制度は、災害支援以外では、私は愚策だと思っている。
発足当初は珍しがって私も使ってみたけれども、どう考えても、自分の暮らす自治体に納税し、充実したインフラや福祉の恩恵を当の納税者が受けられるのがまっとうな行政だろうと。

この記事に、バスの減便のことを書いた。
高齢化社会まっしぐらとなっているのに、その足を奪われては、高齢者はひきこもるしかなくなり、介護が必要になる事態にもつながる。
そうして、歩いていける商店街はすっかりシャッター通りとなっている。

母の里は限界集落だが、子らが独立してみな都市部に出て行ったあと夫を亡くした叔母も数年前に逝った。
家屋と農地は、遺棄されたまま。
そのあたりでは、そんな棄てられた土地ばかりだ。
農家をやっても儲からないし、天候に左右される不安定さを嫌って、跡を継ぐ者がいないのである。
そしていずれすべての住民がいなくなる。

この夏は、スーパーの棚から米が消えた。
アメリカではトランプさんが圧勝したが、それが戦争終結を早めるのか、そうでないのか。
政権を保った現首相は「安全保障」を力説するが、私は本当の安全保障は食糧の自給だと思っている。
農地を捨てたり、町の商店を閉めなければ生きていけない暮らしは、それに逆行するものではないのか。

歩いていたら、かろうじて開いている店があり、店先にやたら栗が並べてあったが、中を覗き込むと総菜屋だった。
「栗コロッケ」というのが名物?らしいので、買ってみた。
冒頭の写真だが、割ってみると中が紫なのでビックリ。
紫芋?
ところどころに栗のかけらが仕込んであり、芋と栗の自然な甘さがある。

さらに進むと、打ち棄てられた大きな建物があった。
曇ったガラス窓の向こうには瓦礫が積んであるのが見える。
取り壊す過程なのか、それすら放棄されてしまったのわからない。
看板らしきものは見当たらなかったが、病院か介護施設か、ほかの何かか。

入り口に車椅子が複数倒れていた。
その光景を目にした瞬間、さっき飲んだ珈琲とは似ても似つかぬ別の苦みが口中と心に満ちた。
私は踵を返して駅へ戻り、自宅方面の電車に乗った。

そんな町でも、ひとたび何かがネットでバズれば、残された住民の暮らしさえ脅かすほどに観光客の襲撃に合うのだろう。
富士山が見えるコンビニのように。
閉館が決まった美術館のように。

そのことが一層気分を重くした。
町が、国が栄えるとはどういうことか。
人々の暮らしに重きが置かれていない国では、ただ首相指名選挙が行われただけで特別国会が閉じる。
臨時国会開催は月内らしい。

住民税非課税世帯に給付金の話が出ているが、一方で「103万円の壁」の撤去(引き上げ)問題もある。
何がメリットで何がそうでないのか、差し引きどうなるのかを考えないと、廃墟の中で転がるのは車椅子ではなく自分の姿になるかもしれない。


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風待ち
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