釣瓶落とし
物心ついての淡い記憶の中に、小さな井戸がある。
危ないから子供は近づいてはいけないと、大叔母に言われていた気がする。
祖母の唯一の身内だった弟の奥さんだ。
その頃は、井戸から出てきて皿を数えるお菊さんの話も知らないし、ましてや貞子の話は書かれてもいない。
それでも、やはり井戸は怖かった。
大叔母の言う危ないというのとは別の意味で、子供の目にも不気味に映ったものだろう。
あの中は真っ暗で、たぶんこの世のものではないものが棲んでいる。
この世でない世界に繋がっている。
そんな気がした。
その井戸から桶で水を汲み上げることはなかったように思う。
脇に鉄製のポンプがあって、それで汲み上げていた。
水が出るところに木綿の布がかぶせてあって、子供の私には、それが何のためなのかわからずに、ちょっと不思議な思いで見つめていた。
しかし、私は恐れながら惹かれていた。
とりわけ、井戸の上に取り付けられた滑車と桶に。
あれを動かしてみたい。
ずっとそう思っていた。
あれを下まで落としたら、どれくらいの深さまで達するのだろう。
井戸の底の未知の世界、魔物が棲んでいる世界と、私が生きて暮らしているこの世を結ぶのが、あの滑車の先にある桶だった。
しかし、臆病でもあり、また預かってもらっている大叔父夫妻に迷惑をかけてはいけないと幼いなりの分別もある「いい子」だったから、その願いを誰に言うこともなく、ただ時を過ごした。
そして結果として、私は、釣瓶落としというものをしたことがない。
秋になると、ストンと音がしそうなほどに陽が沈むことがある。
世間が、釣瓶落としと表現する。
すると私は、思い出すのだ。
元は納屋だった一間きりの住まいに見知らぬ男たち(おそらくは借金取り)が訪れ、私と兄は大叔父の家に預けられる。
兄が自転車の後ろに私を積んで、大叔父の家まで漕いで行く。
あとに残ったのは、子供に見せてはいけない修羅の場だったものか。
私は何も知らず、ただ井戸に憧れ、けれども近づくことができずに、離れたところからそれを見ている。
井戸の向こうには、柿の木があって、朱色の実をたわわにつける。
あれは渋柿だよ、と大叔母が言う。
ね、だから鳥も突かんでしょ。
それでも、帰りしなには、大叔母はたくさんの柿を持たせてくれる。
これは甘柿。
そういえば、あの甘柿はどこになっていたのだろう。
いや、私にもたせるために、どこかで買ってきたものに違いない。
なのに、まるで庭にあるものをもいで寄越したように、大叔母はそれを私に持たせた。
その家は、金沢の寺の集まる町の一角にあった。
数年前に訪れたとき、そこがどこだったかも確認できないほど様変わりをしていて、どんな建物になっているのかもわからずじまいだった。
あの井戸は、どうなったのだろう。
秋の陽が沈むとき、いや、なぜだかわからないが、曇天ゆえにその陽が見えぬときにこそ、私の思い出と幻想が合体する。
埋められた土の下に今もあの井戸はあって、どこかこの世と違う世界に繋がっている。
井戸の底は、この世の底なのか。
それともそこからまた別の世界に繋がっているのか。
漆黒の闇の中に、桶の身代わりのように落ちていく陽。
いや、柿の実。
私は、耳を澄ませる。
そして、自分の中に桶を落とすのだ。
憧れのあの桶。
闇がどれほど深いのか知りたくて。
底があるなら、どんな音を立てるのか。
そこからさらにつながっていく世界があるのか。
それとも、一気に砕け散るのか。
それがつまり「書く」ということ。
関東では地震が続いている。
強盗事件の報も後を絶たない。
台湾や朝鮮半島のキナ臭さが増している。
衆議院選挙の投票券が届いたが、期日前投票所はたびごとに減らされている。
私の心だけではなく、世の中の闇も深い。
どこまで落ちていくのか。
どこが底なのか。
一気に砕け散るとしたら、カーンというその音も恐ろしい。
読んでいただきありがとうございますm(__)m