女子力なんか低くてもいいから、ヤキトリはそのまま食べたい。
大皿に盛られた唐揚げに勝手にレモンをかけられたら、内心でちょっとは憤慨するけれど、すぐにあきらめて食べる。
回転する刃のついたピザ切りの道具で、大きなピザを人数分に切り分けてくれる人がいたらとてもありがたい。
「きらいなものある?」とか訊かれても、煮えたぎる大鍋の具材を「あれはイヤ、これを入れて」と指定できるほどの勇気はない。
オーダーが運ばれてくるたびに受け取り、各人ごとの器に取り分けては、からの大皿をすぐに下げてもらうのを見ると、大皿に盛られたとりどりの料理が一斉に並ぶさまで、目も満足させたかったなと思わないでもない。
ピザ切りを除いて、総じて、複数で飲食するときの「世話焼き母さん」ぶりはあまり好きではない。
そういうのを世間では「女子力が高い」と称賛したりするのかもしれないが、私は自分がしてほしくないことは、積極的にやる気にならない。
何十年も家でやらざるを得なかった「おさんどん」とそれにまつわるお世話を、お金を払ってまでやりたくないという気持ちもある。
私にとって外食って、そういうもの。
結婚していた頃、友人家族と旅に出ると聞いて喜んだはいいものの、山の貸別荘で「えー、結局、ご飯作るんかー」と思ってがっかりしたことがある。
しかも、初めて使うキッチンで調味料も揃っていないのに。
キャンプとかバーベキューとか、私には向いていない。
コロナ禍になって、宴会自体が少なくなり、また不参加を表明しやすくなったのは、感染を除けば、私にとってはありがたい。
複数で居酒屋で飲食して、誰かにヤキトリを串から外されるのほど嫌なことはない。
串を外されたヤキトリは、もうヤキトリではない。
鶏肉のかけらが、何の連携もレイアウトもなく皿にコロコロ転がっているだけのさまは、ペットフードを連想させる。
食べ物ではなく「エサ」である。
「盛り合わせ」を頼んだときに、このような悲劇は起こりやすい。
全員がもも肉もレバーもハツも均等に食べられるという配慮らしいが、それなら、同じ種類の串を人数分頼んで一人1本食べられるようにすればいいではないか。
ヤキトリは、上から2つ目くらいまでを串から歯でぐいっと引き抜くときに、舌だけでなく歯と唇でも味わう料理である。
3番目くらいになり、串の先っぽで喉を突きそうな気配を感じたときは、自分の箸でちょっと先のほうに押し出す。
けして箸で全部抜いてしまうことはしない。
そして、最終的には歯で串から引き抜いて食べる。
それを下品だという人とは同席したくないものである。
小学生のとき、何もねだらなかった私が唯一、親に頼んで行かせてもらったのがそろばん塾。
後から入って、先に通っているいじめっ子を追い抜くのが目標だったので、達成できた瞬間に満足して辞めた。
夕方、帰り道に出ていたヤキトリの屋台で、一番安かった「シロ」を1本だけ買った。
当たり前だが皿はないので、最後の肉まで歯で引き抜いて食べる。
いじめっこに見つからないかハラハラしたけれど、そこだけが「私の時間」「私の空間」だった。
これこそが「私が一番美味しいと感じる食べ方」でもある。
どうでもいいが、私は「ぼんじり」と「皮」を塩でいただくのが好み。
「もう
大出血はしないと
わかっていて
剥くカサブタの
快楽」