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人生の伏線

宵っ張りな子供だった。
小学生の頃から、ラジオの深夜放送を聴いていた。
10歳以上も離れた兄の影響もあるし、呑んだくれて帰宅の遅い父が気がかりで眠れなかったというのもある。

小学生だったか中学に入っていたか定かでないが、当時の番組に「明日は帰ろうオデッセイ」というのがあった。
野沢那智とか白石冬実とか水森亜土とか小島一慶とか出ていたと思う。
エロ満載のコメディ仕立てのミニラジオドラマ。
「オデッセイ」は「オデュッセウス」のこと。
ギリシア神話でたびたび登場する智将である。

彼は、トロイア戦争で勝利したにもかかわらず、その功を我が力によるものと誇示し、神々の怒りをかう。
トロイア戦争は、シュリーマンによってその幾分かは実際の出来事として認められた感があるが、それを伝えたホメロスの叙事詩「イリアス」「オデュッセイア」は、もちろんすべてが真実というわけではない。
ホメロス自体、何人かの吟遊詩人の総称ではないかなどとも言われて、その正体は詳らかでない。

語り継がれた叙事詩によれば、トロイア戦争は、トロイアとギリシアの戦いであるという側面のほかに、神々の代理戦争という意味あいが強い。
煮え切らない大神ゼウスの気を惹こうとする女神たちや、権力争いを優位に導こうとする他のオリンポスの神々の微妙な駆け引きと根回し、談合や懐柔、騙しあいと裏切りの物語である。

オデュッセウスは、たんまりと戦利品を積んだ船で己の名を掲げて功を叫んだ。
これを海の神ポセイドンが聞いた。
なに?
わしの力なしで、オマエごときが勝てたと思うか!
傲慢なヤツめ!
と、怒り心頭に達する。
神々は気が短い。
それで、彼を故郷であるイタキの島に帰れなくする、という懲らしめにでたのである。
以後10年にわたり、彼は放浪を強いられる。
帰りたいのに帰れない。
立ち寄ったり流れ着いたりした島々や海域で、ことごとく恐ろしい怪物に出会うことになるのだ。

「オデュッセイア」は、その間の彼の冒険譚といっていい。
それを下敷きに「明日は帰ろうオデッセイ」が作られた。

当時、私にはギリシア神話の知識などこれっぽっちもなかったから、その内容が理解できたとは思えない。
もっとも記憶にあるのは、子供心に、色っぽい場面(もちろん声と気配だけだが)にドキドキして、ボリュームを大きくしたり小さくしたりしたこと。
小さくしたのは家族に聞かれてはまずいと思ったのであり、大きくしたのはもちろん好奇心のなせるわざである。
子供にはかなり不向きな内容であったと思う。

だが、このとき無意識のうちに、私の脳裏に「ギリシア神話(ローマ神話も)」への興味の種が蒔かれたのだと思う。
のちに、書物で読んだとき、たぶん私はその時点で初めてそれらを知った人物より、少し前を歩いていたはずだ。
知識ではなく興味という点において。
「ああ、あれね!」という旧知のモノとの再会である。

緻密に、けれどさりげなく伏線の張られた物語が好きだ。
それがそうだと気づかなくても差支えのない。
気づいた人だけが味わえる回収のカタルシスはご褒美のようなもの。

けれども、小説やドラマで巧みな伏線を張るためには、ストーリーの最終場面までが出来上がっていないとならない。
ときおり、後付けのような伏線回収場面をドラマなどで見るけれど、どうしても思いつき感が否めない。
烏滸がましい言いようだが、稚拙さを感じる。

自分が生きる道の果ては、どうしたって見えない。
想像はできるけれど、予想どまり。
だから、人生の序盤で伏線を張ることは難しい。

でも。
ときおり、これはあのときの回収ではないのかと感じることがあって、それこそが老化に耐えて長生きをする楽しみのひとつではないかと思っている。

私の中学校当時、日本で扱う西洋美術の多くは「印象派」だった。
「特別展」と銘打って来日する名作もこれに倣っている。
しかし、常設にはルネサンスやバロックもあるのだ。
そこに描かれている聖書の世界とともに、ギリシャ・ローマ神話の世界に私は魅かれた。
そして、その土壌にはあのラジオドラマがあったに違いないと思っている。

夜の空に星を見つけられない街に暮らしている。
それでなくても星座には疎い。
3つ並んだベルトから、剣を振り上げるオリオンの姿を想像する力は、私にはない。

でも、私の神話好きは、絵画好き、異文化好きとなり、長じて、ヨーロッパの美術館をめぐる動機となった。
元夫と交際の始まりも、絵画の話だった。
一時期、美術展のルポも書いていた。

ヴォッティチェリが有名で、そちらも何度も見に行ったけれど、ブクローのヴィーナスのほうが色っぽくてドキドキする。

Bouguereau「ヴィーナスの誕生」オルセー美術館

結婚も人生も、かつて想像したものとはだいぶ違ったものになった。
良かったこともそうでないこともさまざま。
でも、そのきっかけが、大人に隠れて聴いたエロいラジオドラマだと思うと、過ごしてきた人生の面白さが何割か増したように感じる。

冒頭の写真はウィーン美術史美術館。


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風待ち
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