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床板

いまの最低賃金が低すぎるせいだと思うけど、石破さんが1500円を「高い」と強調するたびに「それほどでもないのに」という違和感を持ってしまう。

長く「派遣」で働いてきた。
地域差もあるので申し訳ないが、1500円を「高い」と感じたのは20年以上も前だ。
その頃の、つまりは酒の肴の昔話。


派遣会社からの紹介で、かなり胡散臭い会社と、そこそこ胡散臭い会社からOKをもらって、そこそこのほうに決めた。

・・・つもりだった。

しかし、かなり胡散臭いと睨んだ会社には、就業していないのだから、本当に胡散臭かったのかどうか、今となっては確認のしようがない。
会社は入ってみなければわからないものだ。

「ちょっと、珈琲、飲みに行きませんか?」
と社長に言われたとき、いや~な予感がした。
仕事の話なら、オフィスですればいい。
そうでないのは、仕事以外で、私の耳に入れておきたい話があるということだ。
そしてそういうとき、その内容は、ロクなことがない。
勤めだしてまだ1週間ほどだった。

しかし、聞いておかなかったら、明日からの業務に不都合ということがあってもいけないので、進まない気を引きずるようにして、社長のあとに従った。

夫が社長で、妻が専務だった。
夫は営業、妻は経理。
親戚の娘とかいう20歳そこそこの若いアルバイトの女性と3人所帯。
夫婦には子供はない。

専務は、がっちりした体格の大柄な女性だったが、何か病気になったらしく、仕事を辞めたいと言う。
そのために経理ができる人が欲しい。

社長は、経理だけじゃなく、今バイトの女性がやっている庶務、雑務、すべてやってほしいと言う。
どうやらそのバイトの子を辞めさせたいらしいとわかった。

「あの子には注意してください。」

彼女は、ちょっと反応が遅いが、まあまあ愛想もいいし、人見知りもしない。
とは言っても、それほど親しく話したわけではない。

「仕入先にお金払ってないんですよ。」

経理は専務がみているが、実際の請求書の処理や銀行振り込みなどは、バイトの彼女がやっているという。
「支払ったことにして、自分でがめちゃってるわけです。で、請求書は破棄してます。」

???

「でも、そんなのすぐわかっちゃうじゃないですか。お金払ってもらってませんって言ってくるでしょ。」
「そうなんです。払ってないと言われた時点で、私が謝って払ってます。」

「あの~」

「あの~」

「あの~、本人を問い詰めたりしないんですか?お金を返してもらうとか・・・」

なんでも、妻の親戚の娘だそうで、彼女の父親には昔潰れそうになった会社を何度も助けてもらったことがあるらしい。
そして、妻は、自分に子供がいないからか、この娘を我が子同然に可愛がっていて、横領が発覚しても信じようとせず、かえって夫が無実の彼女を貶めていると非難しているという。

「それでですね・・・。」

社長の言葉は続く。
「実は、私たち、近く離婚する予定なんです。」

はあ、そうですか。

「で、妻から仕事の引継ぎが終わった時点で、妻と彼女には会社からも手を引いてもらって、家からも出て行ってもらうということで・・・」

はあ・・・。

夫妻の住居は、同じビルの上階にある。
バイトの彼女もすぐ近くに住んでいるらしい。

なるほど。
それで横領もちゃらにしてやり直したいということか。
あるいはちゃらにしてやるから、ふたりとも出て行けということか。

「それでですね・・・。ご自分のお金とか、引き出しに入れっぱなしにして席をはずしたりしないでくださいね。」

???

「私の財布、おきっぱなしにしておくと中身が減っていたりするんです。」

!!!

「それと。」

ま、まだ・・・?

「飲みかけのお茶とか、デスクの上におきっぱなしにして席をはずさないでくださいね。」

え?

「実は、妻も彼女もあなたが業務を引き継ぐことに反対なんです。」

???

だって、専務自身が病気だから引き継ぎたいって言ったんじゃないの?

実際のところ、妻は惜しくなったのだろう。
夫とは離れたい。
だが、仕事は手放したくない。
頭で考えていたときは辞めたいと思っていたが、いざ私がやってきて、リアルになってみると、自分の仕事や居場所が私に奪われていくような気がしていたのだと思う。

確かに、引継ぎは、スムーズに行なわれているとは言えなかった。
専務が、私に教えしぶっている、と感じていた。
社長が、私を気に入ったふうで、何もかも任せようとしていることも気に障ったのかもしれない。

で、お茶?

「私、お茶は、これを飲んでいるんです。」と社長は水筒を取り出した。
いつ、どんなときでも、肌身離さず持ち歩くという。

「前に、湯呑みで飲んでいるときにね、なんかへんな味がすると思ったんです。
そしたらすごい吐き気と下痢になりました。そのときは、食べすぎか食あたりだと思って、医者には行きませんでした。でも、そのあと、同じようなことが何度もあって・・・。

あるとき、お茶を飲んで出かけた得意先の会社で、倒れちゃったんです。
病院に運ばれて、検査されたら、出たんです、毒。」

毒!!!
「で、私、それまでのことを思い出して、ようやくわかりました。あのお茶のへんな味。
でも、医者には言いました。間違えて、劇薬に使ったスプーンをそのまま使ったようだ、私が、自分で。」

???

そんなこと、ありえる?
不自然な気もするけど、作り話と判断する材料もない。

この会社、歯科用医療機器及び用品の卸をしている。
医療用のピンセットとか消毒薬とか。
歯医者さんが使う石膏とか、麻酔薬とか。

中には、劇薬もある。
キャビネットには、商品見本がぎっしり詰まっている。
劇薬のビンには、手製のドクロマークが貼ってあった。
本当ですよ、これ。
いまなら写真を撮りたいところ。

「でね、そのキャビネットの鍵、持ってるのバイトの彼女で、使用台帳も彼女の管理で・・・」

!!!

「ですからね、私は、あなたにもう全部任せちゃって、ずーっとやっていただきたいと思っているんですけど、妻と彼女は、そうは思っていないみたいなので・・・」

!!!

「くれぐれも、気をつけてくださいね・・・。」

ぎょえ~~~~~!!!

「で、で、でも、あの~、引継ぎとか、うまくやってもらえてないんですけど・・・」
「それは、私が言いますから。もうそういう約束であなたに来ていただいてるんですから!」

結局、その会社には、そのあと4ヶ月いた。
私もすごいものだ(自画自賛)。
日々、恐怖に怯え、緊張に身を震わせながら。
お金のこともあるが、つまりは、私の好奇心のなせるわざであろう。

ニュースが気になった。
ある朝、テレビをつけると、見覚えのある風景。

古びた扉を開けたきれいとも広いとも言えないオフィスに、黄色いテープが張られ、どかどかと警官が立ち入っていく。
そこに私は出勤する。

取り囲むワイドショーのレポーターたち。
それを排除しながら、先に質問をしようとする私服警官。
こういうとき、私は泣いたほうがいいのだろうか。
取り乱して、「社長、社長・・・」と叫ぶのが一般的だろうか。

「私は何も気づかなかったんです・・・。」

それとも冷静沈着に、いきさつを語り、危険を察知しながら通報しなかった怠慢を詫びるべきであろうか。

また、ある朝、私がオフィスの鍵を開けると、そのワックスのシミと同化するような濃い茶の上着のはしっこが目に入るかもしれない。
やがて視線を広げると、上着に繋がる人間の冷たくなった肉体。
もはや着々と物体化しているそれを、私は目の当たりにするのだろうか。

警察を呼ばなければならない。
私は、問い詰められる。

「なぜ、救急車ではなく、警察に連絡したのですか?」
「あなたは、すぐに彼が死んでいるとわかったのですか?」
「あなたは、彼が殺されるかもしれないと知っていたのですか?」

「わ、わ、わたしは・・・・」

「あなたは、ここの鍵を持っていますね。」

ぎょえ~~~~!!!

4ヶ月して辞めたのは、他の派遣会社から、別の紹介があったからだ。
条件が悪くなかった。
何より、大きな組織で、ニュースやワイドショーに取り上げられるとしたら、殺人よりも汚職のほうが似合うような会社だった。

引継ぎは最後まで、行なわれなかった。
でも時給なので、それ以外の仕事を見つけては時を過ごした。
離婚が成立したかどうかわからない。
離婚せずに、夫が死ねば、多額の保険金が妻に入ることだろう。
そして、妻は仕事も、会社ごと手に入れられる。

いやいや、それは私のまったくの想像、妄想である。
やはり、お金よりも仕事よりも、自由になりたいと妻は思ったかもしれない。

今、あのオフィスはどうなっているだろう。
建物は古くて、歩くと木の床がぎしぎしと鳴った。
あの床板の下には・・・。


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風待ち
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