今年は特に嫌いな感動ファシズム
今年もまた、この季節がやってきた。
しかも、台風のさなかである。
過ぎ去ったところも、被害に落胆し、後始末に追われていることだろう。
私の住まうあたりでは、今夜から明日、場合によっては明後日、明々後日くらいまで大雨のおそれがあるらしい。
台風から遠く離れたところでも、突風(竜巻)が起こって、屋根や門扉が飛んだりガラスが割れたりしているから安心できない。
いまもすごい雷雨!
マラソンはもちろんのこと、イベントそのものを(金輪際)止めてしまえばいいと思っていたが、安全に配慮して実行するそうだ。
「安全に配慮」って、具体的になんだ?
台風をどっかにやったり、雨雲や突風を防ぐ幕を空一面に張ったりか?
気を配って慮ってって、あくまでも気持ちの上の話だよね。
政府のいう「刷新感」「スピード感」「緊張感」と同じで、具体的には何もしなくても「気持ちの上では配慮がある」で許されると思ってる。
出演者にとっては、きちんとギャラの発生する「仕事」であるから、チャリティーでもなんでもない。
すでに被害に遭われたかた、いま危険に備えている人に配慮して、このイベントにかかる経費すべてを寄付するのであれば、そのほうがずっと社会貢献としてのインパクトはあるだろう。
「あなたのお役に立ちます」アピールが嫌いなことは何度も書いている。
「泣けます(泣かせます)」「感動(元気or勇気or希望)を与えます」も同様。
役に立つかどうか、感動するかどうか、元気になるかどうかは受け手の問題で、外からコントロールされることではない。
終わってから結果的に「元気になったわ」と言うのは本人であり、「させた」というなら洗脳であり、「してあげた」というのはあまりに上から目線で、通常の神経なら烏滸がましい話だ。
スポーツ選手が「自分のプレーで見ている人に元気を与えます」とか言っているのを聞くと、聞いているこちらが恥ずかしいし、それに気づかない鈍感さにがっかりしてしまう。
スポーツや娯楽なら、堂々と「好きだから頑張ります」「楽しくやります」と言えばいいのだ。
件の24時間テレビにしても、「自局のイベントとして盛り上げるために実行します」と言えばいいのだ。
芸能人に過酷なマラソンを強いたり、障害や病を抱えるかたがたを取り上げるのは、そのための「ネタ」です、と。
この番組が始まったころは、クラウドファンディングどころか、気軽にネット募金できる環境もない。
身近に募金が必要な例がある場合を除いては、困っている人の情報さえ届かない。
だから、世の中にはいろんな人がいて、中には支援があれば助かることもあると知らせるには、それなりの意義もあっただろう。
視聴者の興味を引くことも大事だったかと思われる。
でも、いまは違うのだ。
もうそういう時代ではないのだ。
その時代遅れ感をよそに、昔ながらの企画を続ければ、その企画自体が「ネタ」に見えてしまう。
困っている人を利用していると感じてしまう。
現に、私の知人(障害者)は取材を受けて、非常に不愉快な思いをしている。
そこに、そうだろうとは思っていたけれど、不正が発覚した。
ほうらね、やっぱりお金のためじゃん。
長年、シンボルとして番組の中心にいた旧ジャニーズ事務所が消滅したとき、不正が発覚したときが、この番組の「退き時」だったと思う。
台風の長逗留は、金に目がくらんでその決断ができない局に対して、来年に向けて存続を検討する機会になりえただろう。
ここで中止して、この後の1年、番組自体をどうするか考えるモラトリアムになったはず。
私はただでさえ「揃いの制服」が苦手(北朝鮮みたいで怖い)なので、この季節、このテレビ局のほかの番組でもあの黄色いシャツを着て出て来るのが、非常に気持ち悪かった。
しかも、台風の被害を伝えるのに、あのシャツが醸し出す「浮かれた」雰囲気はなんなんだよ。
というところで、雷がすごいので電源を切る。
24時間テレビのファンのかたが読んでいらしたら、不快にさせて申し訳ない。
私はわずかであれメディアや他者からの「洗脳感」「コントロール感」に敏感なのだ。
そうされてきた27年の結婚生活が影響していると思われるので、容赦されたし。