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食べない理由

七草粥は食べない。
作ったこともなければ食べたこともない。

実家の父も母も兄も祖母も、誰も七草粥を食べなかった。
食べたがらなかったから、母も作らなかった。

不格好や未成熟で売り物にならないということからか農家の人が畔に棄てていった野菜くずを拾って食べたり、飢えて野草しか食べるものがない、という時代があった。
もはや戦後ではないという高度成長期、我が家は貧困を極めていた。

なんで、ほかに食べられるものがあるのに、わざわざ野の草を食べにゃならんのだ、やっと肉も魚も買えるようになったのに、というのが、私の家族の言い分。
私にも異論はない。

お正月のご馳走で疲れた胃を休めるためのものならば、そもそもご馳走がない状況においてどういう存在価値があるのか。
普通にスーパーで買い物できるようになったいまも、七草粥など必要ないという人もいることを、心のどこかに留めておきたい。
持つ者と持たぬ者がいるとして、たとえ前者になったとしても、私の心はいつも持たぬ者側である。

ちなみに、元夫は、まったく同じ理由を逆の思いで語った。
ほかに美味くて体にいいものはあるのに、なんで野っ原の草なんか食わせるのだ?と。
理由など説明せずに、私も「そうだよね」と言った。

人それぞれ、食べる理由も食べない理由もある。
「普通」とか「常識」とか「慣習」などが成立し定着していく過程には、それでなければならない時代背景もあるけれど、基準には「真ん中くらいの暮らしぶり」ってのがあると思う。
でも、自分が思う「真ん中ぐらい」も人それぞれ。

お腹の調子が悪いときは、よく冷凍ご飯をお粥にして食べるけれど、七草粥はたぶん一生食べないと思う。
以前は私も私なりの正月料理を食べて胃が疲れていたかもしれない。
でも「せっかく店で食材を買えるお金が持てるようになったのに」という親の思いが、ずっと心にある。

そしていまは、店でこれらの野の草を買う時代。
摘んでくるならまだしも、そこのところの心の辻褄が合わない。

趣味としての清貧は、好きじゃない。
貧しかった時代を「偲ぶ」みたいな気持ちには、到底なれそうにない。


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風待ち
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