逃げる鬼
薄い雨雲の向こうに一筋の光が見えたと思ったら、またたく間に空を覆いつくした。
乾燥にあえぎつつも慣れてしまった体と心が、雨の余韻を含んだ空気に和む。
長靴を履いた子供の私が、水に映ったお日さまごとぴょんと飛び越える。
そして、どうだとばかりに小さな胸を張る。
暦の上では大寒だが、鼻のむずむず感が私に春の到来を告げている。
目はまだ痒くない。
3月の気温だとテレビが報じている。
今日は失業手当の認定日で、ダウンジャケットを着て行ったら汗だくになってしまった。
けれども、光の春に誘われて、帰りはついつい散歩。
細めた眼で、天が私を見下ろしていた。
等しく報われることのない世の中で「お天道様はちっとも見ちゃいない」とうそぶく私を。
今日は「甘酒の日」だそうだが、私は酒粕が苦手なので飲まない。
代わりにというわけではないが、汁粉を作った。
小豆粒たっぷり、汁たっぷりのそれを、父は「ぜんざい」と言い、母は「おしるこ」と呼んだ東西融合型である。
そういえば、昔「あずき炊った煮え立った」という遊びがあったなと思い出したが、次の瞬間に「あぶく立った煮え立った」だと思い直した。
あの「あぶく」を「小豆」だと思い込んだのはどういうわけなんだろう?
うちに絵本の類はなかったから、絵で見たということはない。
誰か大人にそう言われた記憶もない。
検索したら、あぶくを立てて煮込んでいるのはやはり小豆だとあった。
泡が立つほど煮えているのに「煮えたかどうか」を食べてみないとわからないのは、小豆ならではと思って腑に落ちた。
昔は、石油ストーブの上に鍋を置いて小豆を煮込んだものだが、いまはもうすっかり「ゆであずき」に頼っている。
灯油を入れるファンヒーターを手放したのは10年も前だが、上に小豆の鍋を置いたり、餅を焼いたりできたストーブがあったのは、そこからさらに30年も昔のこと。
「あぶく立った煮え立った」をやったのは、あとどれくらい遡るか、もう指を折る気にもならない。
しかし、私はあの遊びが嫌いだったのよな。
鬼となって髪をぐちゃぐちゃにされるのが、いじめの一端みたいな気がして。
煮えた小豆を戸棚の中にしまって、「トントン、何の音?」の結末が「お化けの音」で一斉に逃げ出すのも、なんだかわけがわからなかった。
お化けは、小豆の鍋を狙ってきたの?
鍋の小豆は、実は鬼を煮込んだもので、鬼はお化けの来訪に便乗して戸棚を飛び出し、自分を煮込んで突ついた奴らを捕まえるの?
復讐目的としか思えないが、そういう場面はない。
「ハンカチ落とし」も嫌いだった。
あれも、落とされたハンカチに気づかず一周してしまうと、落とされた人が鬼にされてしまう。
意図的に何度も特定の人ばかり鬼にできる。
「けいどろ」も「缶蹴り」も「だるまさんがころんだ」も、結局最後は「鬼ごっこ」になる。
体力や速力が勝負を分ける。
でも、つけられた勝敗は、そのまま集団のパワーバランスに反映する。
大人から見れば、みんなでキャッキャッと楽しそうだけれども。
私は、しだいに近所の子と遊ばなくなり、ついには学校にも行かなくなり、みんなが授業を受けているだろう時間にだけ外に出て、ひとりで水たまりを飛び越えて遊んだ。
そこに映るお日さまを捕まえたように「どうだ」と胸をそらせては、自分で自分を庇い、肯定し、奮い立たせた。
私はどんなふうに、どういう大人になったのだろうか。
鬼じゃない人生を歩めたか。
追いかけるより逃げる選択が圧倒的に多かった気がする。
おやつにおしるこを食べたので、夕飯が食べられないかもしれない。
値引きじゃないお刺身を買ったのに。