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ゾウリムシの記憶

木星の衛星に「ガニメデ」というのがある。
この地下に、海が存在する証拠が見つかったと聞いたのは10年ほど前だ。
海があるということは、生命体がいるかもしれないということだ。
ガニメデシーラカンスとかガニメデカブトガニとか。
しかし、そのあとどうなったのかわからない。

地球に住む人たちが、宇宙について「発見」できていることなんて、ほんのわずかなんだなと思う。
ほとんどが未知である、ということは、なんとなく私を嬉しくさせる。

どうでもいいことだが、「ガニメデ」を発見したのは、あのガリレオ・ガリレイだとか。
日本で徳川幕府が開かれて7年目のことである。

ある巳年の正月、実家の母と兄とで「金運」を求めて「蛇の神社」に参ろうとして、先んじて私ひとり車を降りた途端、足元から「ぞぞぞっ」と身の毛がよだつ感じがして、半分金縛りのようになってしまったことがある。

それでも、駐車場を探すべく、意を決してよろよろと神社に向かったのだが、近づけば近づくほど、私の中で「これ以上行ってはいけない」感が強くなり、実際に気分も悪くなったので、母たちにそれを告げて参詣を中止した。

あれはなんだったのか、今もわからない。
しかし、地から湧くような漠然とした不安や恐怖は、まだありありと思い出すことができる。

帰宅して、口コミでもないかと検索をしたのだが、それとおぼしき神社のホームページのキャッシュを見つけただけで、「ぞぞぞっ」がやってきて、ページを開くことができなくなった。
たぶん、同じ神社を指していると思われる人のつぶやきで「気分が悪くなった」と書かれているものを2件ほど見つけた。

これを「虫が知らせた」というのだろうか。
あのままあの神社に足を踏み入れていたとしたら、何か良くないことが起こって、「ああ、あそこに行ったせいだ」と思ったのだろうか。

それとも、とてつもない金運に恵まれて、「勇気を出して参詣したからだ」とホクホクしたのか。
結果から遡って過去と今との辻褄を合わせるのは、良くも悪しくも現在を肯定したいからかもしれない。

「虫が知らせた」というときは、どんなときか。
それが起こることを、心のどこかで予期していたときだ。
明確な意識ではなくて、漠然とした予期。

良くないことのときは、そのなかに「覚悟」がある。
覚悟をするのは、突然のできごとに慌てふためいたり、絶望したりしないためだ。
だから、自分への衝撃がすこしでも減るように「起こるかもしれない」という思いをわざと抱いて、そして隠しておく。

そのとおりになると「虫が知らせた」と感じる。
それが起こることを恐れて、回避行動をとると「虫が知らせたから」と理由づける。

良いことの場合は、「期待感」だろうと思う。
「あなたに会えるような気がしたのよ。虫が知らせたのかしら。」
会うことが不可能ではない、という期待可能性を自覚していて、でもやはり隠しておく。

私の心理学的勝手分析からいえば、「虫」は潜在している自分の気持ち。
自己防衛本能のひとつだろうと思う。

「虫が好かない」という相手がいる。
相手のどこどこが悪いとあげつらうことはできないのだけれど、なんとなく自分と気が合わなそう。
それは今後、何らかのトラブルの原因になるかもしれない。
だから自分が傷つくようなできことが起こらないように、予め防衛する。
「虫が好かない」という理由で、必要以上の関係を持たないようにする。

命に心が宿ったときから、あったはずだと思う「自己防衛本能」。
その危機感が「虫」になった。
ゾウリムシやバクテリアの頃から、私たちは「虫」という名の自己防衛本能で危険を回避し、繁殖と進化を重ねてきたのかもしれない。

そういえば昔、手のひらに塩をつけてもむと「カンの虫」が出てくると言われてやってみたことがある。
確かに白い線状のものが手のひらに出現した。

塩、ではない。
何かわからないけど、わからないままにしてある。

ものごとには、「わかってこその楽しさ」と「わかっていく過程の楽しさ」と「わからないからこその楽しさ」がある。

いつにもましてどうでもいい話。
しかし、役に立たないことを考えると、心身が癒される気がする。
今日は帰りに大雨に濡れて、ずいぶんと疲れたから。



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風待ち
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