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誰にだって未来はある

残忍な事件が相次いでいる。
気をつけましょうと言われても、つけきれないものもある。
怖いね。

突然、断ち切られた未来にはどんなことが待っていたか、もう知る由もない。
若ければ若いほど、当人も残された人々も無念だろう。

けれども、老いた親を看取り、病に兄を奪われた私は、キャスターやコメンテーターが口にする「未来ある若い命が」という言いように、こっそりと違和感を覚えている。

二つの事件が連続して起こり、一つは中学生が、一つは中年の男女が犠牲になった。
中学生の事件では、「未来ある若い命が」と言い、中年のほうは言わない。
一つだったら気にならずに済んでいたと思う。
たまたま二つ連続しての報道だから、その反応の仕方の差が気になってしまうのだ。

母の死亡診断書には「老衰」と書かれていた。
低血圧や心臓疾患はあったにせよ、齢90を超えていたから、そういうものかもしれないと納得した。
兄のときとは違って、病に苦しんだ果ての最期でなかったことを「老衰」という2文字が伝えていた。

けれども、「(90まで生きて)大往生だったね」という言葉は、私の心を毛羽立てた。
弱っている心の肌を、砂消しでなでられたような。
これは、どういう励ましなの?

子供に死なれた悲しみは言葉では言い尽くせない。
けれど、90歳ならいいというものでもない。
人はみんないつか死ぬものだし、そこまで生きたら十分じゃないかというのは、頭ではわかっている。
でも、心はそうじゃない。

母にも兄にも未来はあったのだ。
それは「〇〇になる」とか「〇〇を達成する」とかいうんじゃなくて、「ドラマの続きを見る」とか「明日のおかずが楽しみ」という未来だ。

もちろん加害者によって、突然断ち切られたことに対しては限りない憎悪がある。
私は事故で左手が不自由になったけれど、それくらいでも、いまも加害者を憎んでいる。
これが自分ではなくて家族が被害に遭ったのだとしたら、私は仇討ちしたいと思うだろう。

でも、それとこれとは違うのだ。
年齢の差でもって、未来の有無を左右するような言い方は好きじゃない。
私の僻みかもしれないが、そこに、年寄りは、病人は、障害者は、貧乏人は、生きていても仕方がないみたいなニュアンスを感じてしまうから。

死にゆく人の満足感なんて、家族にだってわからないじゃないか。
自分の価値観や年齢などの条件で、それを決めるのは烏滸がましいじゃないか。
誰にだって未来はあるのだ。


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風待ち
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