クリスマス特別企画「『受胎告知』に関する下世話な一考察」
昨日からミステリーチャンネルではずっと「アストリッドとラファエル」が放映されていて、もう何度も見ているのに、また流している。
フランス語のドラマはBGMとしても重宝している。
離婚後、長い介護が終わり、一人で自由に過ごせる初めてのクリスマス直前に交通事故に遭った。
それでなくてもコロナ禍となってからは、一人で過ごす選択をしてそれに慣れてしまうと、もう誰かと会うこと、混雑した街に出かけること自体が億劫だ。
今日も一人でのんびり過ごす。
フライドチキンを二切れくらいと、ショートケーキと一杯だけの赤ワインがお供。
クリスマス・イブの夜は、夫がいたころからDVDに落としてある「ベン・ハー」を見るのがお約束になっていて、こちらは「クリスチャンでないからこそ」だと思っている。
信徒の方に叱られるかもしれないが、キリスト教は「物語」として、仏教は「哲学」として、あるいは国や地域や、そこに生きる人々の文化の根幹をなすものとして味わっている。
「ベン・ハー」はもちろん、チャールトン・ヘストン版。
いまのnoteのアカウントで継続的に書き出したのは、今年の6月くらい。
アカウントはあったけれど、それまではほかに書く場所があったので、月に1度書くか、半年ほったらかしというありさまだった。
クリスマスについては、2021年12月25日にフランスでのノエルの思い出を書いている。
それまで、この時期に必ずどこかに書いていた記事を、今日はここにも載せておきたいと思う。
本来なら(という言い方はおかしいが)、「受胎告知」というテーマは、子ナシの私には痛い分野であるかもしれないが、私はこれに関してはお気に入りの作品がある。
それを見るために、幾度もフィレンツェの街を訪れた。
その作品こそが、私の琴線に触れる唯一の「受胎告知」である。
私の好きなルネサンスの画家は、ふたり。
フィリッポ・リッピとフラ・アンジェリコである。
両方とも画僧。
リッピは尼僧である愛人との肉欲生活に溺れ、駆け落ちまでする放蕩三昧の僧侶といわれているが、彼の描く聖母像はことのほか清純で愛らしい。
対照的にアンジェリコのほうは、敬虔で純潔な信仰生活を送ったとされている。
しかし、このふたりの描く聖母像に何かしら共通点を感じるのは、私だけではないらしく、これまでに多くの評論家や研究者が二人を比較研究の対象としている。
ちなみに、「太陽がいっぱい」で、アラン・ドロンが横取りしようとする友人の恋人が研究しているのもフラ・アンジェリコ。
映画の中で、彼女の論文資料として、アンジェリコの画集が登場している。
フィレンツェの「サン・マルコ美術館」は、サン・マルコ修道院をそのまま美術館として保存、公開しているものだが、この僧坊の壁面に、アンジェリコが多くの宗教画を残している。
そのひとつが、私のもっとも納得する「受胎告知」。
大天使ガブリエルが、マリアに対して「あなたは神の子を身籠った」と告げた瞬間である。
私は、想像する。
もし、私が「何の心当たりもないのに」妊娠したと告げられたらどうか。
うっそー!
絶対、ありませんてば!
やってないですもん!
下世話な表現だが、けして教義や信仰を冒涜しようなんて気は微塵もないので、信者のかた、おゆるしいただきたい。m(_ _)m
もし、深い信仰を持っていたとしたとしても、にわかに受け入れがたいと思う。
だって、やってないんだもん。
ギリシア神話において、好色で有名な大神ゼウスは、白鳥に姿を変えて人妻レダと交わった。
また、ダナエには黄金の雨となってその身に降り注いだ。
つまり、何かしらのふれあいはあったわけで、それならまあ、話はわからないでもない。
神さまだから人間のソレとは違うのね~というわけで、レダにもダナエにも、思い当たるふしがないとは言えない。
私は、深く聖書を読みこなしていないので、マリア懐妊がどのように行なわれたか、またその記載があるのか、よくわからない。
何か、光が降り注いだとか、矢が放たれたとか、そういうものがあるのだろうか。
マリアが、あとで考えて、あ~あのときだったのねと納得できるものがあったのか、私には定かでない。
深い信仰があって、あ~ありがたい、畏れ多いことだわと、感慨にふけることができたとしても、それには少しばかり時間が必要だろうというのが、女としての私の感想である。
え?
は?
みたいな感じで、そのあと、「うっそー!」と声をあげるまでにも時間がかかるだろう。
ダ・ヴィンチはじめ、多くの画家がモチーフとしたこのテーマ、どれもマリアの表情が落ち着きすぎていて私にはなじめない。
ダ・ヴィンチのそのマリアなどは「あったりまえよ、私を誰だと思っているの」とでも言い出しそうなふてぶてしさがある。
私が撮った写真がないので画像は貼らないが、興味のあるかたは検索されたし。
そんな中で、アンジェリコのマリアは、ハッとしてちょっと息を呑んだように見える。
突然速まった鼓動を、必死に抑えようとしてごくりとつばを呑み込んでいるような緊張感が見てとれる。
そして、しだいにこみあげる神への畏れと恥じらいに頬が赤らんでいくのだ。
と、書いてきたが、宗教画というものは、いかに「人間復興」と叫ぶルネサンスにおいてもどうしても類型的なものである。
ある程度パターン化されているからこそ、注文する教会側も安心できるわけだ。
バチカンのシスティーナ礼拝堂にミケランジェロが最後の審判を書いたとき、「腰布」をつけなかったことに対して、その掟破りを憤り、後世「修復」という名のもとに「腰布」が書き加えられたことなど、あげればきりがない。
これはルーブル美術館にあるジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「大工の聖ヨセフ」。
ラ・トゥールはフランスで一番好きな画家だ。(ファンタン・ラ・トゥールとは別人)
昔、自分の絵葉書を撮影したものをスキャンしたので映りがイマイチだが、このヨセフという人。
イエスの養い親で、マリアの夫なのだが、どういうわけか老人っぽく描かれているものが多い。
私はこの人に同情を禁じえない。
この人の「受胎告知」の際の苦悩を想像していただきたい。
当時、マリアはヨセフの婚約者だった。
未婚ということもあるし、彼は「正しい」人であったから、マリアとの関係も純潔なままである。
そのフィアンセが、突然「妊娠」した。
げげっ!
こちらも、うっそー!である。
だってオレ、やってないのに~
ヨセフは、こっそりと考える。
マリアとの婚約は解消しよう。
そりゃそうだ。
神の子を孕んだなんて、にわかに信じられないのが普通である。
しかし、当然ながら、このときのヨセフを描いた作品など見たことがない。
私としては、どこかのへそまがりが、「驚愕するヨセフ」として鳩が豆鉄砲食らったように呆気にとられ、次第に疑念と怒りがわきあがるそのさまを描いてほしかったと思うのだが、もちろんそれは教会の意に副わない。
代金がもらえないから誰も描かない。
残念なことである。
しかし、結果として、彼は婚約を解消しなかった。
夢枕に神さま本人(?)が現れ、「あれはワシの子じゃ。気にするな。」とかなんとか言ったらしく、信心深いヨセフは納得して結婚するのである。
信仰の深さかマリアへの愛情ゆえか、両方だったのだろう。
でもって、神の子イエスは、養い親の大工の手伝いもそこそこに、野山を歩いて修業する。
「おまえ、少しは父親を手伝ったらどうだ」といわれると、
「私は父の仕事をしています」
あまり感じのいい子供ではない。
宗教画として「聖家族」が取り上げられるときに、聖母子とともに描かれることを除いては、前述のラ・トゥールのようにヨセフが描かれている作品は少ないような気がする。
心当たりがない妊娠を受け入れ、我が子として慈しみ育てていながら、この扱いはどうだ。
しかも、描かれているのは、みんなイエスの祖父のごとくの老人仕様だ。
どうして若く美しいマリアの夫にふさわしい、若々しくさわやかなイケメンとして描いてやらないのだ?
で、聖母マリアは永遠の処女などという記載もある。
え?え?え?
それでいいのか?ヨセフ。
私は同情を禁じえない。
クリスマスは、やっぱりケリー・クラークソン!
ツリーの下にプレゼントがなくても、子供がいなくても、家族が死に絶えても、今日を元気に迎えられたことが何よりの贈り物。