マスクは思いやりのため
地震速報を見ようとテレビをつけたら、ちょうど山形県に大雨特別警報が発令されたところだった。
降りしきる雨の中、足元もおぼつかない高齢者は、いったいどうやって逃げればいいのだろうか。
もう、そういう人はすでに安全な場所を確保できているのだろうか。
この国の災害後の支援体制には大きな不安と不満があるだけに、どうかみんなご無事でと祈らずにいられない。
先週の金曜日を最後として会社に行っていないだけでなく、ゴミ出し以外には外に出ていない。
「熱中症警戒アラート」というのが出ていて、うちの自治体は連日「極めて危険」となっている。
「外出は控えて運動は中止」というお達しに乗っかって、冷房した室内で怠惰を決め込んでいる。
外出していないので、マスクの消費が止まっていて助かる。
私はいまも、電車やオフィスやスーパーの中ではマスクをしている。
コロナに感染したのは、去年の8月のこと。
身も蓋もない言いようだが、ぶっちゃけ「マスクをしていても罹ります」。
つけ方の不備もあるのかもしれないが、全員がきちんとつけていたとしても万全ではない。
過信は禁物と思っている。
しかし、曝露量は、いくぶん減らせるのではないかというのも実感している。
ワクチン2回目接種の折には、死ぬかと思ったので(以降は打っていないしもう打たない)、本チャン感染はとても恐れていたのだが、たぶん「軽症」というくくりで済んだと思う。
高熱が出て、一滴の水も通らないほど喉が痛んだが、生死に関わる危機とは感じなかった。
でもそれは、うつした人も私もマスクをしていたために体内に入ったウイルス量が少なかったせいかもしれないと思っている。
ワクチンのせいか感染のせいか定かでないが、後遺症めいた症状がいまもある。
何度も罹ると、後遺症が残る確率が高まるというので、もう絶対に罹りたくない。
そして、それ以上に、人さまにうつしたくない。
でも、私がマスクをするのは、感染予防以上に、私を見たり話したりした人に不安を与えたくないからだ。
コロナでも後遺症でも風邪でも、あるいは別に病気じゃなくても、いきなり咳が出ることがある。
電話や対面で話しているとき、会議中、映画館・劇場・ホールなどでの観劇中、そして混んだ電車の中など、「いま、咳き込んだら嫌だな」と思うときに限っていきなり出るのが「咳の法則」だと思う。
そういう人が近くにいたら不安になる。
だから、私も誰かを不安にさせたくない。
そうして、咳や熱の出ないコロナもあるらしい。
コロナ元年の2020年からずっと言ってきた。
私がマスクをするのは、思いやりのため。
人混みや近くで話をするとき、ノーマスクの人を責めたりはしない。
でも、心の中で、ちょっと思っている。
「この人は思いやりのない人だな」
優しい人ってどんな人か。
私にとっては、私を不安にしない人だ。
安心させてくれる人。
安心させるための気遣いのできる人。
コロナ出現から5年目となり、公的な対応も取り巻く事情も、当初とは変わった。
でも、私の中のこの「思いやり基準」はまだ消えない。
罹れば重症化する病の有無は、外からは見えないこともある。
電車の中で隣り合った人の事情などわかるはずもない。
そういう人が、マスクのない私を見て不安にならないように。
それは、私が高齢の親を看取ってきたから。
風邪を引いても死の危険があると言われた兄を介護してきたから。
そういう人たちも、そういう家族を介護する人にも、不安になってほしくない。
ただでさえ、日々、いろんなことに怯えるときを過ごしているのだから。
堤防決壊のニュースが入った。
国民の命の危険が迫っているとき、政府や行政はどうしてことが起こる前に記者会見をして「(たとえ家が壊れても)あとの生活はなんとかする。とにかく逃げて」と言ってくれないんだろう?
気象庁の会見とか呼びかけとか聞きたいわけじゃないんだよ。
読んでいただきありがとうございますm(__)m