「つくばい」にケチをつける
京都の竜安寺に「知足のつくばい」というのがある。
「口」のカタチに空けられた穴を中心に、上下左右にヘンやツクリを配して、「吾唯足るを知る」と読む。
初めて見たのは、高校生の頃。
最初に感じた違和感は、あれから長い時を経たいまもそう変わっていない。
それはきっと私が、生来のへそまがりだからだろう。
私はいわゆる「名言」というやつが苦手だ。
もっともらしいことを言われると、特にそれが具体的な根拠としての経験を示さないでの抽象論や精神論だと、自らの経験と実感に照らして「そうは言ってもね」と逆の話をしたくなる。
足るを知れば心が平安になる。
あるもので充分だと満足する心は、謙虚さをもたらし、感謝の念に繋がる。
だが。
その意味するものの大切さとはうらはらに、私の心はどこかでフン!と言いたくなる。
解釈の問題もあるし、私は禅の精神に明るくない。
正しく解釈したかたに、不快感を与えるかもしれない。
ごめんなさい。
これは、私の中に確かに、そして常に存在する喪失と渇望の根が、言わせること。
それは過去も現在も、たぶん未来も、家庭という帰着点を持たない自分への揶揄と憐憫がないまぜになった、一種ヤケクソのような気持ちである。
だから、そういう意味で、私はけして足るを知ることはない。
私は足るを知らないから、それがもたらす心の平安を得ることができない。
今あるものの価値を知りなさい、手にある幸せに気づきなさい、と忠告してくださるかたもあるだろう。
それはたぶん正しい。
私のはたぶんないものねだりなのだ。
以前「求めない」という詩集が話題になった。
不勉強なので読んでいない。
だが、もし私が書くとしたら、たぶん「求める」だろうと思う。
私は、足るを知らない。
だから求める。
求めても得られない。
得られないのに求める。
だから苦しむ。
四苦八苦の八苦のほうにある「求不得苦」というやつである。
だが、私はそれで不幸なのだろうか。
違う、と思う。
私には、求めるものがないことのほうがずっと不幸だという気がする。
残り時間や体力やお金の事情から考えて、おそらくは叶わないことがたくさんある。
でも、叶えたいと願うことは、私には不幸ではない。
もうやりたいことはみんなやり尽くしてしまった、行きたいところもない、食べたいものもない、求めるものが思いつかないなどと思うことがあったら、私の心は満足感より淋しさに支配されるような気がする。
だから、私は足るを知ろうとすることはない。
今あるものにありがたいと感謝しながら、一方でやはり「もっと、もっと」と求めることをやめない。
それが苦しくても。
そして、そういう今の自分こそありがたいと思う。
泣けもしない、笑えもしない、もちろんこんなふうに書くこともなかったかつての自分を思えば、喪失と渇望を感じることのなんとありがたいことだろう。
私は泣ける。
そして求めることができる。
失ったものもないのに、求めるものもないように見えるのに、なぜ女性は泣くか、という話題があった。
本当に失ったものはないのか、と思う。
いや、失ったものがなくても、人は泣くのだ。
泣くことは吐くこと、リセットすること、そして求めることだ。
私は思っている。
人は、後から失ったという意識がなくても、根源的な欠如感というものをどこかに秘めて生きているのではないか。
足りても足りても、満たされることのない欠如感、喪失感、そして渇望が、人を生かしている、と思うことはおかしいだろうか。
シルヴァスタインの「僕を探しに」にあるように、人はいつも「何かが足らない」とつぶやきながら、欠けた自分のかけらを求めて転がっているのではないか。
そしてそう考えるとき、その足らないもの、足らない理由に思い当たれる自分は、幸せなのではないかと思ったりするのだ。
私は悟りの境地になど憧れない。
仙人になどなりたくない。
灰になるまで、生身の人間として、女として、求め、あがき、焦れ、ときに泣きながら、おそらく108以上あるだろう煩悩とうまくつきあっていきたいと思っている。
悟れないことを恥じるな。
求めることをやめるな。
これでいいなんて思ったときに人生は終わる。
シルヴァスタインは、「僕を探しに」の続編「ビッグ・オーとの出会い」のほうが好き。
かけらのほうが、自分を欠片たらしめているものを探しに転がって行く。
尖っているからうまく転がれない。
でも転がっていく。
焦れながら、憧れながら、求めながら転がっていく幸せ。