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自由なキャラの生まれ方

 モンキー・パンチ先生や水木しげる先生のような、いい意味でいい加減な、自分の作品にあまり執着しない漫画家が好きだ。

 モンキー・パンチ先生は、セカンドシリーズや『カリオストロの城』以降、ルパンのイメージが義賊に変わってしまっても、それに激怒したりはしなかった(変えられてしまったルパンのイメージに多少の苦言は呈していたが、私の知る限り、原作から外れたアニメのキャラ設定に、先生が怒ったことはない)。

 水木先生は、猫娘がいわゆる「美少女化」しても、「金を運んでくれりゃいい」という旨の発言をし、非常におおらかだった(誤解されるのがイヤなので言っておくと、私は美少女化した猫娘が嫌いではなく、むしろ好きである)。そもそも原作の猫娘はレギュラーキャラではなく、出番すらあまりなかったようだ。

 彼らは自分の生み出した作品やキャラに愛着を持たないからこそ(モンキー先生は銭形の下の名前を忘れていたほど)、他の監督が自由にオリジナリティあふれる作品やキャラを付け足すことができ、その結果、長く愛される作品・キャラが確立したのであろう。

 そういう意味で、原作者が「自分の世界を自分が独占する自由」を放棄した作品やそのキャラは、限りなく自由な存在になれるのだと思う。

 原作者が「これは俺の作品だから、ぜんぶ俺が決める!」と意気込むのもカッコイイっちゃカッコイイが、私はあんまり好きではない。原作者が「独占の自由」を手に入れると、「改変の自由」が失われるからだ。他の監督などが入り込む隙がない。作品が完結し、原作者が亡くなれば、その作品もキャラもそこで終わりである。受け継いでいく者が誰もいないのだから。

 そういう作品が好きだという人もいるだろうが、私はどうも苦手である。そういう作品の中では、いくら原作者がキャラを自由に走らせようとも、どうしてもその裏に生身の人間(=原作者)が見えてしまう。

 色んな監督や製作者によって走らされ、誰が今の状態を作り上げたのかよく分からなくなっているキャラの裏に、生身の人間はもういない。誰か分からないから、見つけようがないのだ。結果、そのキャラは究極の自由を得る。原作者の手をも離れて、ついに自分で走り出す。

 今日もルパンや鬼太郎は自分で走っている。そして、物心ついたときからルパンという男に関心を抱いてきた自分は、特に彼への愛と憧れが募ってやまないのだ。

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